Monday, November 14, 2005

Controlled Reflection

猫好きの人ならおそらく知っているだろう、ちょっとした実験のことを書こうと思う。猫の額に視界が遮られる程度の(完全に視界を覆うわけではない)適当な長さに切ったガムテープを貼り、さらに脇腹にも大きめのものをべったりと貼りつけると、その行動・動作に際立ったある変化が見られる。ご存知のように彼らネコ科の哺乳動物は、どのような体勢であろうとも、その動きは滑らかさとバランスを失わない。特に高所から飛び降りるときのアクロバティックな物腰は広く知られている。

ところが、その彼らに前述した操作を加えると、普段私たちの見慣れない「内省的」とも形容できそうな一連の所作が現われる。まず彼らはぴたりと動くのを止め、辺りを感知しようと全身を硬くする。それから、ちょうど剣士が敵との間合いを計るときと同様に摺り足でじりじりと後退する。一足一足ゆっくりと、把握しうる周囲の状況と自分が占めている空間との函数を確かめるように。すると突然すごい勢いで後ろ歩きのまま駆け出し、壁面を背にして部屋のコーナーを伝い、必死でその身を隠す場所を探そうとする。体勢は怒ったときの背中が上がる姿がさらにぐにゃりと歪んだようなS字型で、動作はまるで、ガムテープが貼られた手前と片脇の二方向から、物理的な力がかかっているかのように(あるいはその位置に誰か相手がいるかのように)みえる。この動静を交互に繰り返す。

さて、観察が済んだらリスキーな被験者には、ちゃんとご褒美をあげてもらいたいが、これら一連の所作が興味深いのは、単に普段のそれとは違って不自然でギクシャクしているという点だけではない。うまい言い方がみつからないので不適切なのを承知で言うと、「人格を認める」とは、目の前にいる誰某に対して見えている以上の何かを見出すことだとすれば、その逡巡には何か「人格」のようなものが感じられるのだ。
誤解のないように言い添えておくと、この実験の目的は猫の擬人化にあるのではない。重要なのは「人格」や「個性」といったものがあらかじめ個体に内在しているのではなく、何かに対する反応を通して、むしろ何かに対する反応として、はじめて表出する(察するにそれは人間の姿かたち・表象とは無関係であるとまでは言い切れないものの、直接的なつながりはない)という点にある。猫が何か「思っている」ということを感じるのは、私たちの心理的な投影にすぎない場合もあるが、何か「考えている(探っている)」と認めることはそれには回収できないものを孕んでいる。

ところで、この「反応」をモチーフにしていると思われる作例を挙げておこう。それは先の実験例とよく似ている。

アメリカのアーティスト、ヴィト・アコンチ(Vito Acconci)の《3 Adaptation Studies》(1970)のうちの「Blindfolded Catching」というビデオ作品。この作品は、目隠しをして、次々と自分めがけて投げられたボールをよける(よけようとして失敗する)過程を撮影したもの。注視できない対象(ボール)を注視しようとしている対象(アコンチ)の注視できない視線を注視しようとする観者、という入れ子状の構造になっている。
あるいは、そのヴァリエーションともいえるような《Association Area》(1971)というビデオ作品は、次のような設定を持つ。目と耳を塞いでから幾度かぐるぐる回り、方向感覚を失った2人のパフォーマーがいる。1.パフォーマーの目標は、互いに他のパフォーマーの動作と振る舞いを感じとり、同じ動作をするように試み、その振る舞いを身につけること。2.画面の外(オフ・スクリーン)から流れる声は、彼らが目標を達成するのを助けようと監督するが、しかしその声はパフォーマーには聞こえない。それはパフォーマーの直感的な反応とは別の要素として機能すると同時に、彼らの意図を観者に知らせるようにはたらく。

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Saturday, November 12, 2005

ためしに意識のあるふりをしてみなさい

「言葉にならないものを表現する」あるいは逆(?)に「目に見えないものを表現する」とは、ごくごく一般的に使われている(半ば陳腐な)修辞なわけだが、これを厳密に達成しようとするなら、それでも様々な困難を伴う。

たとえば、今僕が感じている胃の疼き。それが昨晩から何も食べていないせいなのか、近頃のジャンクフードの食べすぎで荒れているせいなのか、そんな諸々の原因のことは除外しておこう。あるいはまた、であるならば、そろそろ栄養のあるものを摂るべきだとか、胃薬を飲むべきだとかの、何らかの欠如に対する充足案についても、これを保留しよう。つまり、「何か食べたい」とか「痛みを鎮めたい」とかの欲求ないし願望を表わすのではなく、ただ単純にこの状態を表わそうとした場合。たとえばそうした場合の、そもそも距離をとって客体化できないような感覚は、いかにすれば外面的な形象に置き換えることができるのか。そして、それが置き換えられたとして、そのつながりが的確であることを(あるいは的確か否かを判断する基準を)、どのようにして知ることができるのか。

話はおそらく変わって、とある哲学者は次のように書く。

しかし、我々が忘れてはならない一事がある。すなわち、「私が自分の腕を上げる」とき、私の腕は上がるのである。そこで問題が生ずる。私が自分の腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を引き去るとき、あとに残るのは何か、という問題である。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』より)

「私が腕を上げる」と「私の腕が上がる」。その差は単に文法上の違いで、言葉の使い方の問題にすぎないようにも思える。ある人は、これは主観と客観、能動と受動という様相的な差であって、それが指し示している事実については、なんら実質的な違いはないのだ、と言うかもしれない。けれど驚くべきことはむしろ、私たちがこの違いを文法上の違いとしてしか表現しえないこと、あるいは言葉の使用を通じてのみ、かろうじて察知しうることであるという点にある。

ためしに「私が腕を上げる」と口にしながら自分の腕を上げ、次に「私の腕が上がる」と言いながら同様の動作をしてみる。何か妙な感じがする。それが何なのかはわからないが、ともかく、ある効果、一定のエフェクトをその時感じる(※間をおかずに何回も反復しすぎると効果がなくなるので注意)。正確に言えば多分それはいわゆる「感覚」ではないのだろう。しかしまるで「感覚することを感覚している」ような、それこそを僕は「感覚」と呼びたくなる。

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Monday, November 07, 2005

ゴダールの『アワーミュージック』

ゴダールの新作『アワーミュージック』を観ました!
なんといっても一等感激したのは、天国のシーンがあったところ!!
『女と男のいる舗道』も『はなればなれに』も『中国女』も『気狂いピエロ』も、も、も!も!!と数え上げれば切りがないくらい、ゴダールの映画の主人公たちはあっさり、死ぬ。
死んだらおしまい。映画もおしまい。でも今回は違う。

「努めて物事を見ること。努めて物事を想像すること。前者は“目を開けて見よ”、後者は“目を閉じよ”ということだ。」

多分今回のメインテーマはこれ。
この二つの行為を、等しく価値あるものとして扱うこと。
または、相互に切り返しあう、見ることと想像すること。

なぜひとは、簡単に「天国」を想像しないのかしらん??
私たちは日々生活していて、現実という地獄については、簡単に想像する。
それはすぐそばにあるものだ。
戦争地獄、病気地獄、借金地獄、恋愛地獄とか、とか、とか。
想像しうる最悪のケース。それを避けるために自らに処方箋を書く日々。
大島弓子的にいえば、叫びと消音枕の日々。
だけど本当は「天国」だって同じように想像することができるはず。

主人公の女の子、オルガは天国に来ていた。
そして、私たちもゴダールの用意した天国に来ていた。

「それは、何かのイメージだ。二人が横に並んでる。私の横に女性がいる。見知らぬ女性だ。自分は分かる。ぼんやりしている。」

天国に来たオルガが最初に語る台詞。
この世にいる時にも語られた、繰り返されるオルガの台詞。
そのつど、語っている彼女の立ち位置は異なっている気がする。

オルガの視点は、常に行き来する。
登場人物としての会話はもちろんのことだが、
映画に映しだされている自分について、語ったりする。
そのとき、それはいったい、オルガの未来からの視点なのか、過去からの視点なのか、 それとも、私たちと一緒に映画館で映画を見ている視点なのか?

無関係なはずのものが、なぜか交錯する。
ひとつの空白、ひとつのスペースが頭のなかでつくられる。
(誰かがそこを訪れることができるように)
それはまだ場所ですらなく。

「イメージの切り返し。想像的な確実さ、現実的な不確実さ。」

見ること、聴くこと、想像することだけでない、期待すること、記憶すること、思い出すこと、忘れること、果ては映画館の暗闇で居眠りすることまで。
「現実の反映」ではない「反映の現実」を探究するゴダールはきっと、ひとが映画を観るという現在のなかに、そのすべての行為が乱反射することを目論んでいるのだろう。

Saturday, November 05, 2005

芸のない芸人たち

もっぱら作業中、テレビをつけていることが多い。
それで気がつくのは、最近の若手芸人(特にピン芸人に多い)は「あるある系」のネタをやっているということだ。できるだけローカルで且つ共感できそうなものを描写し、言い回しで可笑しく列挙していくという方法だが、面白くないのは(芸がないのは)、彼らが同じ方法論でいるのにもかかわらず、うわっつらのキャラクターを変えて、個々に「カブる」ことを避けているという点にある。

大方は、うわっつらのキャラクターであるから、別にその語り口やローカルな視点そのものに影響を与えるわけでもない。例えば、今は消えつつある「ギター侍」は一瞬、「ボサノバ侍」になったが、結局、ギターがピアノとコーラスに変わっただけで、ネタの仕込みは変わってはいない。(これはウケなかったのだろう、その後、見ていない。)これでは、笑えるはずがない。

もうほとんどテレビでは見ることのない「ヒロシ」は、独特のキャラクターの視点を手に入れていたにもかかわらず、そのキャラクターがあまりにも彼の身の上と一致し過ぎていたため、持続することができなかった。

彼らは加藤茶や志村けんのように、役者のごとく様々なキャラクターを使い分けるという技量を持ってはいない。(驚くべきことに加藤茶は「オヤジのくしゃみ」と「花粉症のくしゃみ」、「ハウスダストのくしゃみ」を演じわけることができるのだ。)

いくらお笑い番組を見ても、これでは笑うこともできないうえに、切なくさえなってくる。(このような状況は、どこでも見受けられることなのだが・・・)

『一つの富士の、いくつもの富士』

[Katsushika Hokusai exhibition]
0ct,25-Dec,4,2005
In Japan

URL:http://www.hokusaiten.jp/

10月25日から東京国立博物館で開催されている北斎展を観てきた。
北斎の20歳から90歳までの画業を1期から6期までをわけ、約500点という膨大な作品群を観ることができる。



ここで目を引いたのが誰もが知っている『冨嶽三十六景』の一つ「凱風快晴」だ。まず、「凱風快晴」といえば「赤富士」ともよばれ、赤と藍色のコントラストがどぎつい作品を思い浮かべるのだが、版画だけあって何版も重ねれば刷り師の創意(手癖?)が入り込んで、面白いほど「初刷り」とまったく異なってくる。色のきつい作品は後の方で刷られたものと推測される。
本展では3点の「凱風快晴」が展示されており、そのなかでもギメ美術館のものが微妙な色が施され、最良のものだとわかる。その隣に目をやると、ほぼ同じ構図で描かれた富士が目に入る。「山下白雨」という作品だ。(こちらは2点、展示され、ホノルル美術館から貸し出されている方が良い。)

この2つの富士はどちらも、遠景/中景/近景を描きわけているわけでもなく平面的に処理され、大きさをはっきりと規定してくれるような建物や人物が描き込まれていない。画面の中で相対的に大きさは判断できないのだ。だとしたら砂場の砂山かもしれないこの山に、何故、ある特定の大きさを感じることができるのだろうか?



作品にもどってみよう。まず「凱風快晴」を眺めていると、夜が明けはじめ、深い藍色の空が白白としていく頃、光が山麓から麓を這う木々のように、徐々に山頂へと動いてゆく様子を描いたものなのだろう、光が確かに中腹を這うのがわかる。
「山下白雨」では麓で画面を無節操に横切る大きな稲妻が走り、山頂は雪で心持ち高くなって、中腹にも雪をたずさえている。「凱風快晴」はその題が示すとおり、南からの風が吹き出す春先だとすれば、これは雷が多く山頂の雪も降るころだから、察するに秋口なのだろう。
たとえ季節や天候は対称的であったとしても、日本一の山となれば、ひとつの季節や天候をいっぺんには享受できない。麓/中腹/頂上を、様々な季節や天候により山は分断させられざるをえないのだ。人のスケールでは感じることのできない差を、それは抱え込んでいる。

こうした観察に基づく微妙なディテールの再現が、この小さな画面に大きな富士が存在することを可能にする。
後の方で刷られたものと推測される、国立博物館が所蔵している「凱風快晴」では、山はべったりと赤く塗られてしまっていて、この効果は発揮されていない。実物でその効果を見比べることのできる絶好の機会である。