Friday, April 25, 2008

ゴーストバスターズ(行き止まり)

1.
「ばかな!」とほとんどの人は言う。
「自分が機械のように感じるなんて、とんでもない!」

しかし、自分が機械でないのなら、機械みたいな感じというのがどんな感じなのか、なぜ自分でよくわかるのだろうか。「わたしは考えることができる。だから心がどのようにはたらくか知っている」と答える人もいるかもしれない。しかし、この答は「わたしは車が運転できる。だから車のエンジンがどうはたらくか知っている」という言い方がおかしいのと同じように、正しい答とは思えない。何かをどう使うか知っていることは、それがどうはたらくか知っていることと同じではない。
(マーヴィン・ミンスキー『心の社会』)

この立体(図1)は、率直に言って何が不思議なのか?
それは、一枚の紙に、もう一枚の紙を垂直に貼ってつけたかのように見えるにもかかわらず、ひとつながりの一枚の紙だけでできている、という点にある。

この「不思議さ」によって、「それがどのようにできているのか?」という問いが生じる。わたしたちにとって、対象化しきれない「不思議さ」がないかぎり、「どのように」の問いは、問いとして問われることはない。


2.
まずここではあえて「それはどのようにできているのか?」を、つまり一枚の四角形の紙からどのような手を加えていけば図1の形態ができあがるのかを、記述してしまおう。

一枚の長方形の紙に三つの切り込みを入れる(図2)。三つの切り込みの先端は、三つともに、同じ一本の軸の上に位置している。次に、面aを垂直に折りたたせる。そして、面cは水平に固定したまま、軸線を使って面bを180度回転させる。

手品でいうところのタネ明かしとは、以上のようなものである。
しかしこの説明で、一瞥したときの「不思議さ」を解明したことになるだろうか。

注意すべきことは、
A:「それはなぜ不思議なのか?(=わたしたちはなにを不思議だと感じているのか?)」
B:「それはどのようにできているのか?」
という二つの問いのなかの、「それ」という代名詞が指し示す対象は、かならずしも一致するわけではない、ということである。
Aの「それ」は、わたしたちがなんらかのものを対象化するという行為自体が含まれているのに対し、Bの「それ」は、わたしたちの認識とは無関係に存在している。


3.
たとえば図3のような形態をみてみよう。これとわたしたちがいま問題にしているところの形態を比較すれば明らかなように、切り込みの数が異なるだけで、この二つの形態の仕組みは同じである。

ではなぜわたしたちは、図3の場合には何の不思議さも感じず、図1の場合には不思議に感じるのか。
図3は、全体が一枚の四角い紙からできているように見え、実際に一枚の紙でできている。「見え方」と「仕組みの了解」にずれがない。
対し図1では、全体が一枚の紙のみでできているようには見えず、にもかかわらず実際には一枚の紙でできている。


図1の立体は、一枚の紙のみでできているからといって、図4のようになっているわけではない。垂直に立っている面と水平な面にあるヴォイドが(面積としては等しいのに)一致していない。だがそもそも図1を「くり抜かれている」と錯覚するのは、図4の形態の成り立ちが念頭にあるからだ。もちろん図5のように、複数の紙を合わせているのかといえばそうでもない。しかし、一枚の別の紙にもう一枚の紙が貼られたように錯覚することがあるのは、この図5の形態を想定しているからだ。

つまり「一枚の紙でできているようには見えない」のは、わたしたちが暗黙に、図4や図5の形態の仕組みで図1を読み取ろうとしているためである。図3は立面からすぐに平面に遡行できるため、そのような読み取りは必要ない。そして図1の立体の場合、「見え方」が「仕組みの了解」にフェイント的に作用する。
図2で示した平面の状態で、表裏を区別するために一方に色を塗り、そのあと立面にすれば、どのように分節されているかが視覚的にわかる(図6)。また、図3を先に見て(それを補助線に)図1を見れば、何の不思議さも感じないだろう。


4.
「見え方」と「仕組みの了解」のギャップが「不思議さ」を生じさせる。「不思議さ」を基礎づけ、その前提となっている「不思議でなさ」がかならずある。「不思議でなさ」が「不思議さ」に引き寄せられはじめたら、しめたものである(トリックの射程とは、この引き寄せの度合いのことだろう)。
ただし「不思議でなさの不思議さ」には、問いがあるばかりで答えはないのだが。

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