Saturday, November 05, 2005

『一つの富士の、いくつもの富士』

[Katsushika Hokusai exhibition]
0ct,25-Dec,4,2005
In Japan

URL:http://www.hokusaiten.jp/

10月25日から東京国立博物館で開催されている北斎展を観てきた。
北斎の20歳から90歳までの画業を1期から6期までをわけ、約500点という膨大な作品群を観ることができる。



ここで目を引いたのが誰もが知っている『冨嶽三十六景』の一つ「凱風快晴」だ。まず、「凱風快晴」といえば「赤富士」ともよばれ、赤と藍色のコントラストがどぎつい作品を思い浮かべるのだが、版画だけあって何版も重ねれば刷り師の創意(手癖?)が入り込んで、面白いほど「初刷り」とまったく異なってくる。色のきつい作品は後の方で刷られたものと推測される。
本展では3点の「凱風快晴」が展示されており、そのなかでもギメ美術館のものが微妙な色が施され、最良のものだとわかる。その隣に目をやると、ほぼ同じ構図で描かれた富士が目に入る。「山下白雨」という作品だ。(こちらは2点、展示され、ホノルル美術館から貸し出されている方が良い。)

この2つの富士はどちらも、遠景/中景/近景を描きわけているわけでもなく平面的に処理され、大きさをはっきりと規定してくれるような建物や人物が描き込まれていない。画面の中で相対的に大きさは判断できないのだ。だとしたら砂場の砂山かもしれないこの山に、何故、ある特定の大きさを感じることができるのだろうか?



作品にもどってみよう。まず「凱風快晴」を眺めていると、夜が明けはじめ、深い藍色の空が白白としていく頃、光が山麓から麓を這う木々のように、徐々に山頂へと動いてゆく様子を描いたものなのだろう、光が確かに中腹を這うのがわかる。
「山下白雨」では麓で画面を無節操に横切る大きな稲妻が走り、山頂は雪で心持ち高くなって、中腹にも雪をたずさえている。「凱風快晴」はその題が示すとおり、南からの風が吹き出す春先だとすれば、これは雷が多く山頂の雪も降るころだから、察するに秋口なのだろう。
たとえ季節や天候は対称的であったとしても、日本一の山となれば、ひとつの季節や天候をいっぺんには享受できない。麓/中腹/頂上を、様々な季節や天候により山は分断させられざるをえないのだ。人のスケールでは感じることのできない差を、それは抱え込んでいる。

こうした観察に基づく微妙なディテールの再現が、この小さな画面に大きな富士が存在することを可能にする。
後の方で刷られたものと推測される、国立博物館が所蔵している「凱風快晴」では、山はべったりと赤く塗られてしまっていて、この効果は発揮されていない。実物でその効果を見比べることのできる絶好の機会である。

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