Monday, November 07, 2005

ゴダールの『アワーミュージック』

ゴダールの新作『アワーミュージック』を観ました!
なんといっても一等感激したのは、天国のシーンがあったところ!!
『女と男のいる舗道』も『はなればなれに』も『中国女』も『気狂いピエロ』も、も、も!も!!と数え上げれば切りがないくらい、ゴダールの映画の主人公たちはあっさり、死ぬ。
死んだらおしまい。映画もおしまい。でも今回は違う。

「努めて物事を見ること。努めて物事を想像すること。前者は“目を開けて見よ”、後者は“目を閉じよ”ということだ。」

多分今回のメインテーマはこれ。
この二つの行為を、等しく価値あるものとして扱うこと。
または、相互に切り返しあう、見ることと想像すること。

なぜひとは、簡単に「天国」を想像しないのかしらん??
私たちは日々生活していて、現実という地獄については、簡単に想像する。
それはすぐそばにあるものだ。
戦争地獄、病気地獄、借金地獄、恋愛地獄とか、とか、とか。
想像しうる最悪のケース。それを避けるために自らに処方箋を書く日々。
大島弓子的にいえば、叫びと消音枕の日々。
だけど本当は「天国」だって同じように想像することができるはず。

主人公の女の子、オルガは天国に来ていた。
そして、私たちもゴダールの用意した天国に来ていた。

「それは、何かのイメージだ。二人が横に並んでる。私の横に女性がいる。見知らぬ女性だ。自分は分かる。ぼんやりしている。」

天国に来たオルガが最初に語る台詞。
この世にいる時にも語られた、繰り返されるオルガの台詞。
そのつど、語っている彼女の立ち位置は異なっている気がする。

オルガの視点は、常に行き来する。
登場人物としての会話はもちろんのことだが、
映画に映しだされている自分について、語ったりする。
そのとき、それはいったい、オルガの未来からの視点なのか、過去からの視点なのか、 それとも、私たちと一緒に映画館で映画を見ている視点なのか?

無関係なはずのものが、なぜか交錯する。
ひとつの空白、ひとつのスペースが頭のなかでつくられる。
(誰かがそこを訪れることができるように)
それはまだ場所ですらなく。

「イメージの切り返し。想像的な確実さ、現実的な不確実さ。」

見ること、聴くこと、想像することだけでない、期待すること、記憶すること、思い出すこと、忘れること、果ては映画館の暗闇で居眠りすることまで。
「現実の反映」ではない「反映の現実」を探究するゴダールはきっと、ひとが映画を観るという現在のなかに、そのすべての行為が乱反射することを目論んでいるのだろう。

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