Wednesday, May 31, 2006

Face/Dance

[Side A]

たとえば、モノのダンスはある程度想像できる。
無機質で無表情なモノに、表情が生じればよいわけだから
(でもきっと、アニメーションでよくあるような 
擬人化ではない、モノのダンスについては難しい)。

けれども、顔がダンスしているところを想像できるだろうか。
顔の部位を動かすことが、ダンス的に感じるとは、どのような事態だろうか。
目鼻口をどのように動かしても、すぐになにかの表情になってしまわないだろうか。
顔に表情があるのではなく、逆に、 
表情があるものが顔なのだと、どこかで読んだことがある。

表情×表情、表情の二乗。
もともと表情があるものに表情を付加することの難しさ。
たとえば、悲しんでいるのか喜んでいるのか怒っているのかわからないような「複雑な表情」。
どんなにその意図が一義的に決定しえないものであったとしても、
ひとまとまりのものとして認知されてしまう。

顔においては、意図(意志)と表情はぴったりとくっついていて、
内側からではなかなか引き離し難い。
表情は意図よりずっと強固に存在している
(先に意図なり内発的な感情があって、表情が生まれるという一方向だけでなく、
「笑い顔をつくることで気分が楽しくなる」ように、
表情をつくることが感情を生じさせ、
「意図」を要請することが多々あるという事実は、誰でもよく知っている)。

顔だけを使ってダンスすること。いうなればそれは、チック症のようなものだろうか。
当人の意志とはまったく無関係に、ぴくぴくと波打つ顔面。
なるほど、その「表情」は「顔」からまったく遊離している。

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[Side B]

たとえば、こういうのはどうだろう。
喜怒哀楽の表情の、瞬間的な移り変わりの速度と、
人が生まれてから死ぬまでの、肌や皺や髪の色の移り変わり、
つまり新陳代謝のような、細胞レベルの物質的な変化の速度とを交換したら、
いったいどんなふうに見えるだろう。

もしくは、
無表情の仏頂面と遺体の死に顔との違いとはなんだろう。
それは、ほとんど動くものが見当たらない風景を撮りっぱなしにした類の、
目に見える変化に乏しいムービーと、
完全に変化がなく止まっているスティル(つまり写真)との差異に似ている。

なにかが「変化している」のと「表情がある」、この把握の仕方はどう違うのか。
あるいはまた、この二種類の認知は、どのように絡み合っているのか。

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Wednesday, May 10, 2006

どうやってできているのか、その仕組みがわかるのに不思議とはどういうわけだ? 

1.
過去にゲイリー・ヒルや小金沢健人などのアーティストが幾つかのビデオ作品で試みていたが、通常の動作を、たとえば、前進するという動きを後退りでやるというように、あらかじめ人力で巻戻して(順序を逆にして)演じ、それを撮影したものをさらに編集で機械的に巻戻すという操作には、なるほど確かに一定量の面白さがある。
映像の編集エフェクトである「巻戻し」は「地面へと流れ落ちる水が逆流し、蛇口のなかに吸い込まれる」とか「割れた花瓶が元のかたちに戻る」といったような、不可逆的な現象を可逆的にしたときにもっともトリッキーさを発揮する。しかしこの「巻き戻しを巻き戻す」という二重の操作で重要な点は、エフェクトそれ自体にあるのではない。「巻戻し」という規制があることによって、一連の順序を持つ何らかの行為を行為たらしめている分節が把握されるということ。それがこの操作が持ちうる射程を引き出す使用法なのだ。

知人の話によると、最近あるテレビの深夜番組でアイドルグループの嵐が、歌や水泳などの行為で同種のことをやっていたらしい。筆者は未見だが、特に「水泳の逆」という設定は、手足を動かす順序を入れ換えることが、身体全体の進行方向を逆にすることに直結しないため、相当難易度が高そうだ。さらにおそらくは、機械的に巻き戻しした際に、水の波打つ変化は操作できないから逆行のままで、泳ぐ人の動きは順行になるはずで、二つの異なるベクトルを持つ変化を同時に見ることができるだろうから、その点においてもとても興味深い。
ゲイリー・ヒルの《Why do things get in a muddle? 》(1984)の場合では、役者の音声と動作は明らかに奇妙で、操作されていることを隠しておらず、人力巻戻しと機械巻戻しの不一致、そのズレを明瞭に見せることに狙いがあったと考えられる。けれどむしろ筆者に関心があるのは、件のテレビ番組の採点基準でもあるらしい、「巻戻しを巻戻したときにいかに巻戻しに見えないか」というのと同様、二つの巻戻しの操作が完全に対称的に一致してそのズレがゼロになったときに(巻戻しの効果をまったく消してしまったときに)、そこで残る動きとはどのようなものか、ということだ。察するにこの動きの性質とは、見えているのはすべて何の変哲もない動作でありながら、何かが変だ(不自然だ)という、いわば離人症的な印象を見る側に与えるものであるだろう。

2.
さてそこで、次のような演習を設定した。
事例は、先の水泳のように複雑な過程を持つものではなく、極力簡易でその単位があらかじめミニマムなものを選ぶ。たとえば、はっきりと可逆的で、ほとんど対称的な行為である、衣服を「脱ぐ-着る」という動作。パフォーマーは今から行なう自身の行為が巻戻されることを知っているため、着るときは脱ぐように、脱ぐときは着るように振舞わなければならない。
しかし実際やってみればわかることだが、今やっている当の行為は「着ている」わけだから「脱ぐの逆」をやろうとしても普通に着てしまい、「着るの逆」をやろうとしても単に脱ぐことになってしまう。自分が「脱ぐの逆」をやっているのかそれとも「着ている」のか、あるいは、「着るの逆」をやっているのかそれとも「脱いでいる」のか、その違いが行っている当人にとっても区別がつかず、そのうち混乱してきてしまう。
しかしだからといって、この演習の性質上、考えずにとりあえずやってみればなんとかなる類のものでは勿論ない。われわれが操作しうる可逆的な事象、その操作可能な領域の幅を検証していくことが、あるいは、「意識せずにできること」「意識しないとできないこと」「意識してもできないこと」「意識するとできないこと」などの意識化の様々なカテゴリーをそのつど徹底的に「意識的に」形成していくことがその目標にあるからだ。
したがってパフォーマーの課題とは、以下の点に集約される。
この「脱ぐ-着る」という分節だけでは先の指令をクリアできないため、この行為を二つの単位だけでなく新たにもっと微分化してから、その順番を組み立て直さなければならない。
たとえば、これ以上シンプルなものはないと思われるような「帽子(キャップ)を被る-脱ぐ」という行為も、よくよく観察していけば他の細かな分節を探し出すことができる。第一に、もしパフォーマ-が長髪であるなら、帽子を被るために前髪をかきあげるという動作を加えることができ、慎重に髪を手で押さえるようにすれば、帽子を脱いだ後に髪をかきおろす動作と対称型をつくり出すことが可能だ。第二に、額を含む前頭部にキャップを被せていくことと、それがずれないようにしっかりとなかに頭を収めるためにキャップの後ろに手を添えることとに段階を分ける。第三に、全体のシークェンスを検討してみる。立った姿勢のまま腰を屈ませて床に置かれた帽子をとって被るのと、被っていた帽子を脱いでポンと床に放り置くのとでは、当然その速度が異なる。この所要時間の差に注目すれば、その順序を逆にするわけだから、「ゆっくりと床に帽子をおいてぱっと一気に被る」という一連の動作としてつくり変えることができる。
要するにここでの作業工程の方向性とは、一見同一で、観念的にはまったく違いのないものにいかに違いをつくっていくか、対称的なものを非対称的にしていくか、ということに尽きる。これは先に述べた人力巻戻しと機械巻戻しのズレをゼロにしていくという当初の目的とはまったく正反対の操作であるように思えるかもしれない。けれど実践的にはこのような迂回を経てはじめて、当初の目的に照準を合わせることができたのだった。

3.
「着る」と「脱ぐの逆」、あるいは「脱ぐ」と「着るの逆」を等号で結ぶためには、その順序を変えるだけでなく、そこにつきまとう物理現象の持つ非対称性を消去する必要がある。先の帽子の例で挙げた所要時間の差は、重力という物理現象の介在によって生じるものだ。可逆的な現象を撮影した映像の機械的な巻戻しがわれわれに与えるエフェクトとは、概ねこの重力の抵抗感が逆照射されたものにすぎない。消去しようとしたものはこれらの抵抗感の総体であり、抽出しようとしたのは「抵抗感がまったくない」ということから生じる抵抗感のことだった。
なるほど、たとえば腕を怪我した状態で衣服を着替えることは、今まで意識せずにあたりまえに行なっていたことを意識化することであるから、ある程度新鮮な経験ではあるだろう。けれどそれと、上記の操作が目指していることやその際の経験は、何らかの不自由さや制限が与えられることで、今の状態を成立させている前提を知るという点においては同型であるものの、決定的に異なっている。なぜなら、怪我の状態での着-脱衣は、その怪我の箇所に刺激を与えることを避けながら、ということはそれを対象化し基準とすることで、通常の動作の過程を意識させる。だがこの演習においては、行なっていることから推測されたものだが実際には目の前で起こっていない、頭のなかで逐一組み立てられたものだけが、その基準となるのだ。そして、より重要なのは、一見可逆的な行為にも、非対称的な物理的抵抗が組み込まれているという事実が、観念的な枠組みを修正していく過程によってしか把握されないという点にある。
作業を始めるきっかけとなった目的と、作業工程上で生じた課題。一方は、「…すれば~のように見えるだろう」という見る側の観点であるのに対し、他方は、「…しなければならないがそのためにはどうすればよいのか」という行為者側の観点である。これら双方の帰結をフィードバックさせることが、一連の順序を持つ何らかの制作を制作たらしめている基本的な分節なのかもしれない。

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