Friday, April 25, 2008

方向感覚(行方不明)[引用]

私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解らなくしてしまった。(中略)

私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、鋪石がしっとりと露に濡れていた。どの商店も小綺麗にさっぱりして、磨いた硝子の飾窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。(中略)かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、どうしてこんな町があったのだろう?

私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。(中略)何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。

その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。その瞬間、磁石の針がくるりと廻って、東西南北の空間地位が、すっかり逆に変ってしまった。同時に、すべての宇宙が変化し、現象する町の情趣が、全く別の物になってしまった。つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。(中略)

このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持っているということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心に考え続けた。いったいこの額の景色の裏側には、どんな世界が秘密に隠されているのだろうと。私は幾度か額をはずし、油絵の裏側を覗いたりした。そしてこの子供の疑問は、大人になった今日でも、長く私の解きがたい謎になっている。

 ▶萩原朔太郎『猫町』(1935)

ゴーストバスターズ(行き止まり)

1.
「ばかな!」とほとんどの人は言う。
「自分が機械のように感じるなんて、とんでもない!」

しかし、自分が機械でないのなら、機械みたいな感じというのがどんな感じなのか、なぜ自分でよくわかるのだろうか。「わたしは考えることができる。だから心がどのようにはたらくか知っている」と答える人もいるかもしれない。しかし、この答は「わたしは車が運転できる。だから車のエンジンがどうはたらくか知っている」という言い方がおかしいのと同じように、正しい答とは思えない。何かをどう使うか知っていることは、それがどうはたらくか知っていることと同じではない。
(マーヴィン・ミンスキー『心の社会』)

この立体(図1)は、率直に言って何が不思議なのか?
それは、一枚の紙に、もう一枚の紙を垂直に貼ってつけたかのように見えるにもかかわらず、ひとつながりの一枚の紙だけでできている、という点にある。

この「不思議さ」によって、「それがどのようにできているのか?」という問いが生じる。わたしたちにとって、対象化しきれない「不思議さ」がないかぎり、「どのように」の問いは、問いとして問われることはない。


2.
まずここではあえて「それはどのようにできているのか?」を、つまり一枚の四角形の紙からどのような手を加えていけば図1の形態ができあがるのかを、記述してしまおう。

一枚の長方形の紙に三つの切り込みを入れる(図2)。三つの切り込みの先端は、三つともに、同じ一本の軸の上に位置している。次に、面aを垂直に折りたたせる。そして、面cは水平に固定したまま、軸線を使って面bを180度回転させる。

手品でいうところのタネ明かしとは、以上のようなものである。
しかしこの説明で、一瞥したときの「不思議さ」を解明したことになるだろうか。

注意すべきことは、
A:「それはなぜ不思議なのか?(=わたしたちはなにを不思議だと感じているのか?)」
B:「それはどのようにできているのか?」
という二つの問いのなかの、「それ」という代名詞が指し示す対象は、かならずしも一致するわけではない、ということである。
Aの「それ」は、わたしたちがなんらかのものを対象化するという行為自体が含まれているのに対し、Bの「それ」は、わたしたちの認識とは無関係に存在している。


3.
たとえば図3のような形態をみてみよう。これとわたしたちがいま問題にしているところの形態を比較すれば明らかなように、切り込みの数が異なるだけで、この二つの形態の仕組みは同じである。

ではなぜわたしたちは、図3の場合には何の不思議さも感じず、図1の場合には不思議に感じるのか。
図3は、全体が一枚の四角い紙からできているように見え、実際に一枚の紙でできている。「見え方」と「仕組みの了解」にずれがない。
対し図1では、全体が一枚の紙のみでできているようには見えず、にもかかわらず実際には一枚の紙でできている。


図1の立体は、一枚の紙のみでできているからといって、図4のようになっているわけではない。垂直に立っている面と水平な面にあるヴォイドが(面積としては等しいのに)一致していない。だがそもそも図1を「くり抜かれている」と錯覚するのは、図4の形態の成り立ちが念頭にあるからだ。もちろん図5のように、複数の紙を合わせているのかといえばそうでもない。しかし、一枚の別の紙にもう一枚の紙が貼られたように錯覚することがあるのは、この図5の形態を想定しているからだ。

つまり「一枚の紙でできているようには見えない」のは、わたしたちが暗黙に、図4や図5の形態の仕組みで図1を読み取ろうとしているためである。図3は立面からすぐに平面に遡行できるため、そのような読み取りは必要ない。そして図1の立体の場合、「見え方」が「仕組みの了解」にフェイント的に作用する。
図2で示した平面の状態で、表裏を区別するために一方に色を塗り、そのあと立面にすれば、どのように分節されているかが視覚的にわかる(図6)。また、図3を先に見て(それを補助線に)図1を見れば、何の不思議さも感じないだろう。


4.
「見え方」と「仕組みの了解」のギャップが「不思議さ」を生じさせる。「不思議さ」を基礎づけ、その前提となっている「不思議でなさ」がかならずある。「不思議でなさ」が「不思議さ」に引き寄せられはじめたら、しめたものである(トリックの射程とは、この引き寄せの度合いのことだろう)。
ただし「不思議でなさの不思議さ」には、問いがあるばかりで答えはないのだが。

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Tuesday, April 22, 2008

For Example vol.7


ジョン・バルダッサリ John Baldessari
《Horizontal Men》
1984
白黒写真、ボードに貼り付け
247×123.5cm

[実験の目的]
人物の体勢(対象の形態)によってしか、地面が位置づけられない状況を想定すること。

[実験の仮説]
存在することは所属することである。ある対象を認知するとき、われわれはそれが位置する空間もセットで捉えている。けれど一方で、死んだ者は位置を持たない。眠っている者の属する場は見えない。
少なくとも映像/画像においては、対象と背景、人物と地面の関係は絶対的ではない。地面は、フレーミングと人物の関係に規定される。先行する実験例として、例えばエドゥアール・マネ Edouard Manetの《死せる闘牛士/Le Torero Mort》(1864)、トリシャ・ブラウン Trisha Brownの《Primary Accumulation》(1972)などを参照すること。

[実験の方法]
素材の物質性は一切利用せずに、既存のイメージだけを使って物質的な抵抗感を作る。
複数の複製画像をコラージュする方針を採りつつ、構図上のバランスを優先するコンポジションや、異なるイメージ同士の衝突、文脈の組み換えである異化効果に留まらない編集操作を行なう。

1. 画像は地面に水平に横たわる人物像で、映画のスチール写真や報道写真をソースとする。死体、倒れている人物、寝ている人物、死体のふりをする人物、寝ているふりをする人物、と虚実を問わずに集める(ただし、すべて眼を閉じているか、顔が見えない角度であること)。
2. 収集した画像を、それぞれ(棺桶のなかにあるように)一人の全身がぴったり収まるよう矩形状にフレーミングしてカットする。各々のサイズの違いを調整して、同じ程度の大きさにする(縦は多少の差はあってもよいが、横はきっちり同じ長さにそろえること)。人物の背景はそのまま残し、個々の素材に対しては最小限の加工で済ませる。
3. コンポジションになるのを避けるため、これらを上から下に並べる「積み重ね」という、ごく単純なルールによって配置していく。類似した体勢の人物の反復によってできる連続性。下に向かうにしたがって徐々に長くなる縦の幅。これが観る者の視線を誘導する。
4. 配置の際は、各々の身体の体勢と顔の向き、そしてカメラ・アングル(上から見下ろし/下から見上げ/やや斜め/完全な平行など、どの角度から撮っているか)の微妙な偏差に注視する。最終的には計九つの横たわる人物像を選択し、仰向け/うつぶせ/上半身と下半身のねじれ具合などの異なるものを隣り同士にする。
5. また、一番下の画像のみ、もともとは垂直に立ち両腕を後方に向けている人物像を、左回りに45度傾けて使用する。この操作によって、他の画像より背景が広くなり、下方に余白ができる。本来、もっとも加重がかかるはずの最下部の人物が浮遊して見えるため、視線の流れと連動していた上から下への力のベクトルが宙吊りになり、脱臼される効果が生じる。

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Sunday, April 13, 2008

運動器官の可塑性|カッツ[引用]

もし、甲虫の本来の六本脚の中から一つあるいはそれ以上が切断されると、甲虫は残りの脚でもって歩み進むであろう。しかもその運動はいまや、まったく新しいやり方で相互に結合されなければならない。極端な場合において、すべての脚を取り去ると、顎まで前進運動のために活動させるようになる。しかしながら、これらの器官はけっして以前にこのような機能を持ってはいなかったし、おそらくまた甲虫類の全系統発生史においてもけっしてそんなことはなかったのである。

脊椎動物の四肢切断実験も似たような結果を提出する。犬の両方の後肢を切断すると、犬は手術の傷が治癒するや否や運動をはじめる。そのやり方は、二本の前肢の間に後身を突っ込んで移動するか、あるいは後身を高くあげて、二本の前肢で歩くようにする。前肢を切断すると、カンガルーのように二つの後肢で運動する。このような現象は、人が“試行錯誤”の原理と呼んでいる骨の折れる学習を行なうことなしに起こるのである。

私は、自分で一匹の犬を長い間観察する機会をもったことがある。その犬は同じ側(左側)の前後の肢を災難で失った後、あとに残った二本の肢でまことに巧みな方法で運動したのであった。モルモットの四肢を切断すると、軀幹(胴)を軸として転がるようなふうに運動しようと試みる。

上記の例のすべてにおいて、運動器官の驚くべき可塑性が明らかにあらわれている。求心的ならびに遠心的神経繊維をもっている同一の運動中枢はすべての場合に対して一つの恒常機能をもっているという古い学説をわれわれは放棄しなければならない。(中略)末梢で何が生じるべきであるかを中枢器官が決定するのではなくて、いかに中枢器官が調整したらよいかを末梢が決定するのである。(中略)末梢自体が中枢器官のうちに一時的な中枢を作り出す。その一時的な中枢は、あるときは比較的徐々にできあがるものもあるし、また四肢切断の場合のように、突然に形成されるものもある。

 ▶ダヴィット・カッツ『ゲシタルト心理学』(原著1942)

Wednesday, April 09, 2008

りんごと地球は互いに落下しあう その2

視覚ほど、自分のポジションを忘却させやすい感覚器官は、他にないだろう。おそらく触覚には「透明」というややこしい状態は存在しない。視覚が面白いのは、むしろ視覚的とは言いがたい感覚までもが視覚(のエラー)によって見い出せるからではないだろうか。

たとえば、みそ汁の入った椀をトンと机に置く。椀はもう止まっているが、なかのみそ汁はまだゆらゆら震えている。そこで、そのみそ汁の水面だけをじっと眺めてみる。眺め続ける。すると瞬間、みそ汁は静止し、それ以外の周囲すべてがぐらぐら振動する。赤瀬川原平の《宇宙の缶詰》のコンセプチュアルな閃きとはまた別種の、エフェクティヴな、この関係の逆転。

エルンスト・マッハは『感覚の分析』で、この現象と似たような事例について考察している。
橋の上に立って下を流れている水を眺めると、普通には自分は静止していて水の方が流れているように感じる。しかし、しばらくのあいだ水面を見つめていると、周知の通り、必ずといってよいくらい、橋がわれわれ観察者とその周囲もろとも水に対してとつぜん動き出し、逆に水の方が静止しているかのように見えはじめる。
停まっている汽車と動いている汽車がすれちがうとき、誰しも実にさまざまなかたちで、この種の印象を受けたことがあると思う。蒸汽船でエルベ河を遊覧したおりのことであるが、私は上陸する直前、船の方が停まって陸地の方が船の方に向かって動いてくるような、驚くべき印象を受けた。

また、もっと素晴らしいのは、風がなくて雪が降りしきっている冬の日、マッハの娘が体験したという「家ごと昇っていく」ような感覚だろう。つまり、窓辺で雪を眺めていてそれが静止しているように見え、降るという実際の運動と逆に、自分がいる家を含めた雪以外のすべてが上昇して見えたというわけだ。それはいましがた降ってきた雪が見ている風景、雪の目線そのものではないか! 「これらの諸現象はいずれも純粋に視覚的な現象ではなく、全身の打ち消しがたい運動感覚を伴っている」とマッハは言う。われわれは、複数の運動と静止を、同時に見分けることはできない。運動感覚は足早に、それを既知の状況にあてはめて処理しようとする。この性急かつ投げやりな性分を利用するのだ。

撮影装置としてではなく、映写装置としての映画を考えてみた場合、こうしたポジションの忘却という視覚の性質はさらに決定的になる。ある特定の時と場所において撮影された映像を、それとは別の時と場所で見るということ。つまり、通常の見る行為とは異なり、何らかの映像を見るという経験は、それを見る側の位置や環境との関係、さらに他の諸知覚との連動性から切り離されている。

これと同型なのが、移動中の乗り物から外を眺めるという経験である。たとえばスピルバーグの『太陽の帝国』で、ちょうどスクリーンを眺める観客と同様に、主人公の少年が自動車の車内から人が溢れた上海の街並みを眺めるシーンのように、知覚と行為の対応関係のみならず、「私はそれを見ているが、それが存在しているとは信じない」といった表象と実在の対応関係の乖離こそ、典型的に「映画」的なものであった。
あるいはまた、ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』の天使は、あらゆる場所の人間を観察することができるが、自分自身がそこに介入し、働きかけ、関係することができない存在として、すなわち、あらゆることを知ることはできるが、何一つ経験することはできない存在として設定されているが、これなどはあからさまに観客の位置と相似的である。

凝視することは、自分のいまいる場所ではなく、いま見ている(ということは自分とは距離のある)対象との関係を世界の基点にすることだ(見ることはまるでピン留めのようだ、しかし何をピン留めするのか? 《最後の審判》のミケランジェロの自画像のような、皮だけになって垂れ下がるわれわれ自身の身体を? )。だが、「見ることがすべて」になったとき、「動くことができる」のではなく「止まることができない」という、われわれの打ち消しがたい運動感覚は、はたして亡霊のように復活するのだろうか。

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Sunday, April 06, 2008

明るさに対応するのは、暗さではなく隠すことである[引用]

Mask the cover:

ウォッチマンは見ることの“罠”の“中に”落ちる。
“スパイ”は別の人種である。
“見ること”は“食べること”であり、またそうでなく、“食べられること”であり、またそうでない。
(セザンヌ?——それぞれのオブジェクトは別のオブジェクトを反映している。)
つまり、ウォッチマンと空間とオブジェクトの間には、ある種の連続性がある。
スパイは“逃げる”用意ができていること、自分の登場と退場に気をつけていることが必要である。
ウォッチマンが仕事を離れても、何の情報も取り去らない。
スパイは記憶しなければならない。
自分自身と自分の記憶とを記憶していなければならない。
スパイは自分を見過されるものとしてデザインする。
ウォッチマンは警告として“役に立つ”。
スパイとウォッチマンが出会うことがあるだろうか?
「スパイ」と題された絵の中に、彼は存在するのだろうか?
スパイはウォッチマンを見張るために配置につく。
スパイが見慣れぬオブジェクトだったら、どうして目につかないのだろう?
彼は眼に見えないのだろうか?
スパイが目につくようになったら、われわれは彼を解任しようとするだろう。
“スパイするのでなく、ただ見ること”——ウォッチマン

もうひとつの可能性——何かが起こったということを見る。
それを「指摘する」のと「隠蔽する」のとでは、どちらの方がこのことをよく表わしうるだろうか?

 ▶ジャスパー・ジョーンズ Jasper Johns『スケッチブック・ノート(Sketchbook Notes)』(原著1965)

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Cover the mask:

まずきちんとした足取りで、きちんと足音を響かせて、まっすぐに歩く。歩幅も歩調も一定にする。急に振り返るとか、道を変えるとか、不規則な動作はけっしてしない。顔はほぼ常に正面へ向けて、そのつどその視野の範囲内をしっかりと押える。立ち止まるときははっきりと立ち止まり、脇や隅を確認するときには首の動きに節目をつけて分明にする。曲がるのもできるかぎり直角に折れる。たった一人ながら、親衛隊のパトロールに似てくる。あの軍靴鳴り響かせてしゃっちょこばった行進を、以前は滑稽に思って眺めていたが、その必要がわかる気がした。
存在と距離と接近の速度とを正確に伝えることが大事なのだ。もしも潜んでいる者がいたとしたらその者に。ライトも気ままに振ってはならない。たとえば教室の戸口のすぐ内に立って、まず正面を照らし、一定の速さで右に振り、左へもどす。怪しいけはいがなくても何箇所かでライトの動きを止め、そこを中心に前後左右、上下と、ゆっくり小幅に動かす。机やら椅子やらの影が浮ぶと、物陰で息をひそめ目までつぶりうずくまりこむ絶体絶命の緊張を想うことがある。しかし、あんがい隠れやすいようにできているものだとも思った。巡視する者と潜伏する者と、おのずと呼吸の一致があるようなのだ。おそらく古今東西、夜警の者の動作には、手にしたものが松明だろうとカンテラだろうと電灯だろうと、似たような、儀式がかった順序とテンポがあり、潜伏者の怯えと、通じあっているのではないか。できるだけ戦闘は避けるように。猟師と獣が出会わぬように。

「起る起らないの、感じ方が普段とすこしばかり、違うんだよ。おたがいに排除しあわないんだ、起る起らないが。その境目あたりを歩くわけだ、時々刻々。起らなかったということが結果になる閑もないんだ。そのかわりに、起っても、とっさに仰天しない」

 ▶古井由吉『陽気な夜まわり』(1982)

りんごと地球は互いに落下しあう その1

コンピュータ・アクションゲームの下手な人の操作の特徴は、いわゆる達人が魔法のような素早い手捌きで、しかし、淡々と作業をこなすようにゲームをクリアするのとは対照的だ。肩の力が入りすぎて上腕が硬直したままコントローラーのボタンを目一杯力を込めて押し、キャラクターの動きと連動して、いちいち本人の半身が大きく揺れたりする。大概そうした人は、ゲームオーバーする頃には、運動した後のように上着がびっしょりと汗で濡れていて、さらに極端な場合だと、長時間プレイした翌日などには筋肉痛になる者もあるらしい。いったい、この発汗ならびに筋肉痛という結果を、どのような原因に帰するべきなのか。彼は単にコントローラーを一定の間隔でいじっていただけでもないし、かといって、画面上のキャラクターの動作の模倣を通じて、それと同量の運動エネルギーを消費していたわけでもない。

暫定的な結論を示しておけば、「物理的」ということ(「実在性」)が知覚されるのは、視覚だとか聴覚だとかの感覚によるのではなく、つまり外部から観察するのではなくて、身体それ自身がその基準枠のなかに投入されたときフィードバックが起きて知覚される。それはテレビゲームのような、いわゆるインタラクティヴな仕掛けを使わなくても起こりうる(不安定な手持ちカメラの映像を長時間見続けていると、しばしば酔うことがあるといった例を想起しよう)。

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Thursday, April 03, 2008

ジャコモ・マンズー 三点

《マリアの死の部分》(1962年)粘土

《空中での死の部分》(1963年?)粘土

《モニュメントの着想》(1968年)ブロンズ

最遠平面|ユクスキュル[引用]

作用空間および触覚空間とは反対に、視覚空間は不透明な壁によって取りかこまれている。これを地平面または、最遠平面と呼ぶことにしよう。
太陽・月・星などは、目に見える全てのものを包みこんでいる同一の最遠平面の上に、奥行きのちがいを感じさせることなく動いている。最遠平面の位置は絶対に動かせないように固定されているのではない。以前私が重いチフスを患った後、はじめて戸外に出たときには、最遠平面がまるで鮮やかな色彩で彩られた壁掛けのように約20メートル先に掛かっていて、その上にすべての目に見える事物が描きだされていた。この20メートルのかなたにおいてはもう遠いものとか近いものとかの区別はなく、ただ、大きいとか小さいとかの相違があるだけだった。(中略)

10メートル周囲の内部では、人間の環境世界の事物は、このような目の筋肉運動によって、遠近が判断される。この外側では、本来、ただ対象物が大きくなったり小さくなったりする現象がおこるだけである。乳児の場合には、その視覚空間のすべてを包括している最遠平面は、この10メートルの距離で閉じられている。われわれは、次第に距離信号の助けによって、この最遠平面をだんだんと遠くへ拡大していくことを覚える。しかし成年においても、視覚空間は6キロから8キロメートルの距離で閉じられ、そこから地平面が始まる。(中略)

最遠平面がどのような仕方で視覚空間を閉じているにしても、最遠平面というものはつねに存在している。したがって、われわれ人間の周囲の自然に生気を与えている動物たち、たとえば草原に生活している甲虫、チョウ、ハエ、カ、トンボなどは、それぞれ一つのシャボン玉のようなもので取りかこまれているものと考えることができる。このシャボン玉は、それらの動物の視覚空間を閉じており、その中に、主体にとって見えるすべてのものが包みこまれている。一つ一つのシャボン玉は、それぞれ別の場所をその中に含んでいて、その中にはそれぞれの作用空間にしっかりした骨組を与えている方向平面も存在している。(中略)

われわれがこの事実を生き生きと目の前に思い浮かべるとき、はじめてわれわれは人間の世界においてもこのシャボン玉を認識しうるのである。こうしてわれわれは、全ての隣人たちが主体的な知覚信号からできているがゆえに、何の摩擦もなしに接しあっているシャボン玉によって取りかこまれていることに気がつく。主体と無関係な空間は存在しない。けれどもわれわれが、なお、すべてを包括している宇宙というフィクションにこだわるとすれば、それはただこのような古くさいフィクションの助けを借りる方が、お互いに話しが通りやすいからというだけのことである。

 ▶ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』(原著1934)


 Pablo Picasso

「死後の視覚」を想像する|ディック[引用]

もし死人の目から外をのぞいたとすると、見えることは見えるけど、目の筋肉を使えないから、ピントが合わない。首をまわすことも、目玉を動かすこともできない。できるのは、なにかがそばを通りすぎるのを待つことだけ。凍りついちゃってる。ただじっと待つしかない。
目の前をだれかが通ると、それは見える。そのときだけね。それと、自分の目が向いている方向だけ。ほかのものは見えない。もし木の葉かなにかが落ちてきて目の上にくっついたら、それでおしまい。見えるのは木の葉だけ。ほかはなにも見えない。首をまわすこともできない。
想像してみてよ。意識はあるけど、生きていないってことを。見ることも知ることもできるけど、生きていない。ただ外を見てるだけ。認識はしても、生きてない。人間は死んでも、まだ先をつづけられる。ときどき、人間の目からこっちを見てるものは、まだ子供のころに死んだものかもね。そのとき死んだものがまだ外をながめてる。それはからっぽの肉体がこっちを見てるってだけのことじゃない。そのなかはまだなにかがいるけど、もうすでにそれは死んでて、ただいつまでもじっと見てるだけ。見ることをやめられない。
それが死ぬってことの意味さ。自分の目の前にあるものを見ることがやめられない。くそいまいましいなにかがすぐ目の前にある。だが、なにかを選んだりとか、なにかを変えたりとか、そんなことはできない。自分の前に置かれたものをただ受けいれるしかない。
永遠の月日のあいだ、ビールの缶をじっと見つめるってどんな気がすると思う? そうわるくはないかもな。なんにも怖いことはないんだから。

 ▶フィリップ・K・ディック『スキャナー・ダークリー』(原著1977)

ボディ・プレッシャー|ブルース・ナウマン [引用]

Body Pressure

Press as much of the front surface of your body
(palms in or out, left or right cheek)
against the wall as possible.

Press very hard and concentrate.

From an image of yourself
(suppose you had just stepped forward)
on the opposite side of the wall
pressing back against the wall very hard.

Press very hard and concentrate on the image pressing very hard.

(the image of pressing very hard)

Press your front surface and back surface toward each other
and begin to ignore or block the thickness of the wall.
(remove the wall)

Think how various parts of your body press against the wall;
which parts touch and which do not.
Consider the parts of your back which press against the wall;
press hard and feel how the front and back of your body press together.

Concentrate on tension in the muscles, pain where bones meet,
fleshy deformations that occur under pressure;
consider body hair, perspiration, odors(smells).

This may become a very erotic exercise.

 ▶Bruce Nauman《Body Pressure》(1974)