Monday, October 31, 2005

『BankART Life 24時間のホスピタリティー~展覧会場で泊まれるか?~』

「ホスピタリティー」というテーマを持つこの展覧会では、ほとんどの建築家と美術家はまさしくお互いにホスピスしあって「美術のような建築作品」と「建築のような美術作品」との境界をなしくずしにしていた。この展覧会をみる限り、彼らのアプローチに根本的な違いはないように思える。だがそれは歓迎すべき事態なのかどうか。

一見して展覧会を特徴づけるのは軟らかい素材の多用であり、造形は端的にデパートなどにある託児所を連想させるものが多かった。しかし泊まることができる=止まることができる=観客にある一定の時間を割かせることとは、はたしてそういったベタな心地よさのみで事足りるものなのだろうか。あるいはもっと言えば、きれいとかきたないとかの快不快や、上手いとか下手だとかの技術的な精度以外に(あるいはそれらを批判するような)、別の評価基準を見出すことはできないだろうか。
一方で、なぜ建築あるいは場所そのものをつくらずに、自分以外の誰かの建てた建築空間(展覧会場)に出品するのかという問題が建築家であるならば当然浮上する。他方美術家であるならば、究極的にはあらゆる既成の時空間に帰属・回収されえずに存在するはずの自分の作品と、「泊まる」「もてなす」「くつろげる」といった居住空間との卑近な連続性の保持とを天秤にかけることが真の命題たりうるのかと、一度ならずとも訝るはずである。ちなみに、この双方の問題を考慮していた唯一の例外は、岡崎乾二郎の『甲羅ホテル』だった。

http://bungohotel.blogspot.com/

同じ横浜で開催中の横浜トリエンナーレにもよく見られる、近年流行のインタラクティブ型=参加型の致命的な欠点は、徹頭徹尾観客の善意を当てにしていること、もしくは、(それを鑑賞し需要してくれるような)観客という存在自体をあらかじめ前提としていること、さらには、その観客が何の目的も持たない(個別的な状況下に置かれていない)ニュートラルな存在として想定されていることだ。それがあらかじめ存在しているのなら、なにも「作品」など生産する必要はないはずなのだが。

Stephan Balkenhol Exhibition

東京オペラシティアートギャラリーで開催されているドイツの彫刻家、シュテファン・バルケンホールの展覧会を観てきた。今回の展示ではレリーフも多数出品されていたが、彼は主に一本の木から彫り出された人物や動物像を、複数組み合わせたインスタレーションで知られている。
単刀直入に問題提起しよう。なにゆえにバルケンホールは、わざわざ個々の彫像の高さや位置を様々に変えてインスタレーションするのだろうか? その必然性はどこにあるのか? 遺憾ながらそれは、個々の彫像自身が、それが置かれているところの空間を変容させ、規定し直すことがないがゆえに採られた、稚拙な妥協案でしかない。

人物像は、彫りだされた像とその下の台座からなっている。それらは同じ一本の木からできていて、台座はもとの素材のままで加工されていないか、着彩されている場合があっても、サイズや形状には手を加えられていない。だから当然、その人物像は台座よりも大きくなることはなく、そこからはみ出ることがない。この限定は言うまでもなくミケランジェロをはじめとするカーヴィングの古典的問題に抵触するわけだが、しかし、バルケンホールはそのことをそもそも問題と捉えていない。つまり、あらかじめ与えられた全体、もしくは素材の持っているスケールは揺らぐことはなく、像との安定した関係を保持しており、台座からはみ出ることのないはずの彫像が、にもかかわらず、別のスケール、別の全体をかたちづくるという逆転はまるで起こらない。
あるいはまた、全面にプリミティヴなノミのタッチが残っているが、それも(たとえばセザンヌのようには)全体のフォルムの変動にさして寄与することのない皮相的なもので、いわば「粗々しさ」の記号、単調な「味わい」をつくりだすものに過ぎない。そして、フォルムの統一性は実のところ服や髪といった具象的な分節に律儀に従った彩色に全面的に負っている。
肖像レリーフの場合も、基本的には彫像と同様の操作で、人物の部分を彫っていき、そのバックはもとの板のままで削らず残している。その結果、人物が手前にあって背景が後ろにあるという通常の見え方と逆になっていて、壁に人物がめり込んでいるようにみえる。これはこれでオプティカルな効果としてはそれなりに面白いのかもしれないが、それを「現実との関係を揺らがす」などと評価するのは控えめに言っても褒めすぎで、浮き彫りという技法が持つパラドクスがそのまま露呈しているだけだ。

唯一好感が持てたのは、『男』というブロンズのあまり知られていない作品で、二体の全身像が、その両膝の関節の繋ぎ方と首の傾斜の関係がおかしいために、ねじれた空間をかたちづくっていた。革新的かどうかはともかく、マンガのようなデフォルメに一定の根拠を与えていたと思う。

Sunday, October 30, 2005

Sigmar Polke Exhibition


He is not fulfilling the obligation as the painter.
It was a too primitive painting.

[Sigmar Polke exhibition]
Oct,1-Oct,30,2005.
In Japan

URL:http://www.ueno-mori.org/special/sigmar_polke/

上野の森美術館のジグマ−・ポルケ展を観てきた。様々な時代、様々な技法によって描かれた図像を、一つの画面に「多層」的に混在させることで知られるドイツの作家だ。その作風は「現代の錬金術師」などと形容されることが多い。しかし今回の展示をみて、その賛美が果たして妥当なものなのか、疑問をもたざるをえない。

なぜなら、ポルケの絵を観てみるとどのような手順で画面が描かれたのかすぐにわかってしまう。つまり製作の過程がそのままレイヤーとしてわかれてしまっているということだ。言うまでもなく、素朴に描けば手順はレイヤーとして分離し、当然、上/下、(描かれた)前/後は離れたまま、幾らでもその上から描きつづけることが可能である。
問題は「多層」的などということではない。どこでやめなければならないのか?どこでやめることができるのか?ということであろう。

ある批評家たちが言うように、もし仮にでも「多層性」が重要であるならば、同じ強さの層が重なっていなければならない。
しかしポルケの絵は上の層を置く前に不透明色で下の層を弱めているし、こうした不透明なクッション材を設けていない絵はというと、下の層が上の層よりあからさまにコントラストが低くしてあったり、キャラクター性が強く視点の集まる先(たとえば顔だとか)を最上部につくっている。いかにも予定調和的に画面ができているのだ。
これに比べればフランシス・ピカビアが1930年前後に描いた『Chloris』などのシリーズのほうが「多層性」の問題に素直に取り組んでいるように思える。

ゆえに「錬金術師」を様々な対立する性質の物質を一挙に手にできる者とするならば、この賛辞はポルケにはあたらないだろう。
素朴におこなってしまえば分離してしまうはずのものを混ぜあわせ、一つとすることが彼らの使命だったのだし、如何に「(生成過程をとわれないような)自然」に見えるよう、絵を成すことできるか?ということが多くの画家の達の目標だったはずだ。
フェティッシュに絵の具や布にこだわるあまり内容を伴わないその画面は、ただ大きくなり観客を威圧することしかできなくなっている。実際のポルケの作品よりも印刷物として圧縮され、布の模様や筆触が現実のスケールと遊離していた方が、少しだけ感覚が揺らぐことを我々は知っているはずだ。

test

from hand to mouth