Monday, October 30, 2006

ルールの在り処 その1

マンガ『エスパー魔美』に出てくる「梅仁丹」をご存知だろうか。女主人公の超能力者魔美が、テレポーテーション(瞬間移動)する際に使うハート型のバッチのことだ。その先端を自分に向けスイッチを押すと、ピュッとピンク色の梅仁丹がバッチから出て、同時に魔美もピュッと消える。それはちょうどスーパーヒーローが変身するときの小道具、アイテムのようなものだ。ある話で魔美は洞穴に閉じ込められる。「でも平気、わたしにはこれがあるもの」と彼女はいつものようにバッチを押すが、なぜかテレポーテーションすることができない。何となかの梅仁丹が切れている。これでは洞穴から抜け出せない。
ところが実はこの「梅仁丹」は、魔法使いの杖やドラエもんの秘密道具などとは違って、それ自体に何か特別な力、機能があるわけではなかった。バッチは単に梅仁丹が飛び出すようにつくられているだけで、それ以上の力は何もない。特別なのは、自分に何か物がぶつかりそうになるとテレポーテーションしてしまう魔美自身の能力で、「梅仁丹」はボーイフレンドの高畑くんがつくってくれた、その能力を函数として定式化した装置だったのだ。
つまりそれが「梅仁丹」というかたちをとって外在化していたことで、かえって彼女は自分の能力をすっかり忘れていたというわけだ(魔美は落ちている小石を自分に向かって放り投げ、無事洞穴を脱出する)。しかしこのエピソードが内包しているのは、何も超能力に限った問題ではない。われわれは自分の能力や感覚ひいては意識を、どうやって所有・所持し、それがあることを確かめているのだろうか?
それがあることは、確かめるべくもなく確かなのに(しかしこの確かさを言葉にしようとすると、「確かだと感じたことだけは確かだ」というトートロジカルなものにしかならないのだが)、どこにあるとは言えないもの。たとえば映画『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』で、クライマックスに見えない橋を渡るシーンがあるが、その状況を加工してひとつの問いを立てておこう。もしその橋が眼に見えないだけでなく(砂をかけてもその姿が現われず)、一歩踏み出したとしてもまったく足にその感触がなかったとしたら、すなわちその一切の知覚的な手がかりを欠いていたとしたら、歩いてそこを通ることができたという奇跡は、インディの内側で起こったことなのか(自分が起こしたことなのか)、それとも外側で起きたことなのか(外からもたらされたものなのか)、彼はどちらだと捉えるだろうか。

哲学者ベルクソンは、たとえば、ひとつの町をあらゆる視点から撮った幾枚の写真を無際限に補い合わせても、われわれがそこを散歩したときに得られるものとは等しくならないという。そして、物のまわりを回ることと、物のなかに入ることとの物を知る二つの見方のうち、後者を視点や記号に依らないがゆえに絶対的なものだとする。彼によれば「絶対」は内からみれば単純なもので、一度つかむと不可分であるのに、外から数え挙げていくと尽くせない無限という性質を持つ。それは、分析的な記述を積み重ねることと、内的なルール/法則を把握し、それによって説明することとの違いに似ているかもしれない。
20世紀の著名な彫刻家であるアルベルト・ジャコメッティAlberto Giacometti(1901‐66)とヘンリー・ムーアHenry Moore(1898‐1986)の二人が、この二つの見方に対応するような対照的な言葉を残している。

あなたを正面から見つめると、横顔を忘れてしまう。横顔を見つめると、正面の顔を忘れてしまう。すべてが不連続になる。問題はそこなのだ。私にはもう全体が捕捉できない。段階が多すぎるし、レベルの数が過剰なのだ……神秘が深まるばかりなのである。(アルベルト・ジャコメッティ)

彫刻家は形体をどこまでも徹底的に空間を占めるものとして、たえず考え、用いるようにつとめなければならない。彼はいわば自分の手の内部にその堅牢な形をつかむ――彼はその大きさのいかんを問わず、あたかも掌におさめて、完全に握っているかのように、それを考える。彼は心のなかで、すべての周囲そのものから、或る複合した形体を視覚化する。彼は一方を見ながら他の側がどうなっているかを知る。彼はその重力の中心、その量塊(マッス)、その重量と自己を同一化する。彼はその形のために空中にうつしかえられる空間として、そのヴォリュームを実感する。(ヘンリー・ムーア)


ジャコメッティの方はまさしく、ひとつに統合することができない無数の見えに拘泥し、他方ムーアは視覚的な表象に依拠しない単一な物の把握こそ、彫刻家の任務であると言う。両者がまったく相容れない立場にあるにせよ、そこに通底しているのは、部分の総和が全体であるわけではないという、全体と部分との非対称的な関係に対する認識、すなわち「ここに物がある」という内在的な確実性の手触りと、距離を持って対象を知覚する際の個々の現われとが一致しないという認識ではないだろうか。二つの見方ないし二つの異なるルールのあり方の、どちらがより完全かという問題は棚上げにするとしても、不可思議なのは、それらが決して重ならずに並存しているという点だ。

「人は意識のないふりをすることができる。では、意識のあるふりはどうか。(ウィトゲンシュタイン)」意識のない状態は外側から見ることができるから、まねをすることができる。たとえば映画においては、目を閉じて動かない人と死体とは区別がつかない場合もある。しかし、「ある」を外側から感知することができないのだとすれば、「ない」を内側から感知することなどできるのだろうか。

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