Thursday, April 03, 2008

「死後の視覚」を想像する|ディック[引用]

もし死人の目から外をのぞいたとすると、見えることは見えるけど、目の筋肉を使えないから、ピントが合わない。首をまわすことも、目玉を動かすこともできない。できるのは、なにかがそばを通りすぎるのを待つことだけ。凍りついちゃってる。ただじっと待つしかない。
目の前をだれかが通ると、それは見える。そのときだけね。それと、自分の目が向いている方向だけ。ほかのものは見えない。もし木の葉かなにかが落ちてきて目の上にくっついたら、それでおしまい。見えるのは木の葉だけ。ほかはなにも見えない。首をまわすこともできない。
想像してみてよ。意識はあるけど、生きていないってことを。見ることも知ることもできるけど、生きていない。ただ外を見てるだけ。認識はしても、生きてない。人間は死んでも、まだ先をつづけられる。ときどき、人間の目からこっちを見てるものは、まだ子供のころに死んだものかもね。そのとき死んだものがまだ外をながめてる。それはからっぽの肉体がこっちを見てるってだけのことじゃない。そのなかはまだなにかがいるけど、もうすでにそれは死んでて、ただいつまでもじっと見てるだけ。見ることをやめられない。
それが死ぬってことの意味さ。自分の目の前にあるものを見ることがやめられない。くそいまいましいなにかがすぐ目の前にある。だが、なにかを選んだりとか、なにかを変えたりとか、そんなことはできない。自分の前に置かれたものをただ受けいれるしかない。
永遠の月日のあいだ、ビールの缶をじっと見つめるってどんな気がすると思う? そうわるくはないかもな。なんにも怖いことはないんだから。

 ▶フィリップ・K・ディック『スキャナー・ダークリー』(原著1977)