Sunday, April 06, 2008

明るさに対応するのは、暗さではなく隠すことである[引用]

Mask the cover:

ウォッチマンは見ることの“罠”の“中に”落ちる。
“スパイ”は別の人種である。
“見ること”は“食べること”であり、またそうでなく、“食べられること”であり、またそうでない。
(セザンヌ?——それぞれのオブジェクトは別のオブジェクトを反映している。)
つまり、ウォッチマンと空間とオブジェクトの間には、ある種の連続性がある。
スパイは“逃げる”用意ができていること、自分の登場と退場に気をつけていることが必要である。
ウォッチマンが仕事を離れても、何の情報も取り去らない。
スパイは記憶しなければならない。
自分自身と自分の記憶とを記憶していなければならない。
スパイは自分を見過されるものとしてデザインする。
ウォッチマンは警告として“役に立つ”。
スパイとウォッチマンが出会うことがあるだろうか?
「スパイ」と題された絵の中に、彼は存在するのだろうか?
スパイはウォッチマンを見張るために配置につく。
スパイが見慣れぬオブジェクトだったら、どうして目につかないのだろう?
彼は眼に見えないのだろうか?
スパイが目につくようになったら、われわれは彼を解任しようとするだろう。
“スパイするのでなく、ただ見ること”——ウォッチマン

もうひとつの可能性——何かが起こったということを見る。
それを「指摘する」のと「隠蔽する」のとでは、どちらの方がこのことをよく表わしうるだろうか?

 ▶ジャスパー・ジョーンズ Jasper Johns『スケッチブック・ノート(Sketchbook Notes)』(原著1965)

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Cover the mask:

まずきちんとした足取りで、きちんと足音を響かせて、まっすぐに歩く。歩幅も歩調も一定にする。急に振り返るとか、道を変えるとか、不規則な動作はけっしてしない。顔はほぼ常に正面へ向けて、そのつどその視野の範囲内をしっかりと押える。立ち止まるときははっきりと立ち止まり、脇や隅を確認するときには首の動きに節目をつけて分明にする。曲がるのもできるかぎり直角に折れる。たった一人ながら、親衛隊のパトロールに似てくる。あの軍靴鳴り響かせてしゃっちょこばった行進を、以前は滑稽に思って眺めていたが、その必要がわかる気がした。
存在と距離と接近の速度とを正確に伝えることが大事なのだ。もしも潜んでいる者がいたとしたらその者に。ライトも気ままに振ってはならない。たとえば教室の戸口のすぐ内に立って、まず正面を照らし、一定の速さで右に振り、左へもどす。怪しいけはいがなくても何箇所かでライトの動きを止め、そこを中心に前後左右、上下と、ゆっくり小幅に動かす。机やら椅子やらの影が浮ぶと、物陰で息をひそめ目までつぶりうずくまりこむ絶体絶命の緊張を想うことがある。しかし、あんがい隠れやすいようにできているものだとも思った。巡視する者と潜伏する者と、おのずと呼吸の一致があるようなのだ。おそらく古今東西、夜警の者の動作には、手にしたものが松明だろうとカンテラだろうと電灯だろうと、似たような、儀式がかった順序とテンポがあり、潜伏者の怯えと、通じあっているのではないか。できるだけ戦闘は避けるように。猟師と獣が出会わぬように。

「起る起らないの、感じ方が普段とすこしばかり、違うんだよ。おたがいに排除しあわないんだ、起る起らないが。その境目あたりを歩くわけだ、時々刻々。起らなかったということが結果になる閑もないんだ。そのかわりに、起っても、とっさに仰天しない」

 ▶古井由吉『陽気な夜まわり』(1982)