Sunday, October 30, 2005

Sigmar Polke Exhibition


He is not fulfilling the obligation as the painter.
It was a too primitive painting.

[Sigmar Polke exhibition]
Oct,1-Oct,30,2005.
In Japan

URL:http://www.ueno-mori.org/special/sigmar_polke/

上野の森美術館のジグマ−・ポルケ展を観てきた。様々な時代、様々な技法によって描かれた図像を、一つの画面に「多層」的に混在させることで知られるドイツの作家だ。その作風は「現代の錬金術師」などと形容されることが多い。しかし今回の展示をみて、その賛美が果たして妥当なものなのか、疑問をもたざるをえない。

なぜなら、ポルケの絵を観てみるとどのような手順で画面が描かれたのかすぐにわかってしまう。つまり製作の過程がそのままレイヤーとしてわかれてしまっているということだ。言うまでもなく、素朴に描けば手順はレイヤーとして分離し、当然、上/下、(描かれた)前/後は離れたまま、幾らでもその上から描きつづけることが可能である。
問題は「多層」的などということではない。どこでやめなければならないのか?どこでやめることができるのか?ということであろう。

ある批評家たちが言うように、もし仮にでも「多層性」が重要であるならば、同じ強さの層が重なっていなければならない。
しかしポルケの絵は上の層を置く前に不透明色で下の層を弱めているし、こうした不透明なクッション材を設けていない絵はというと、下の層が上の層よりあからさまにコントラストが低くしてあったり、キャラクター性が強く視点の集まる先(たとえば顔だとか)を最上部につくっている。いかにも予定調和的に画面ができているのだ。
これに比べればフランシス・ピカビアが1930年前後に描いた『Chloris』などのシリーズのほうが「多層性」の問題に素直に取り組んでいるように思える。

ゆえに「錬金術師」を様々な対立する性質の物質を一挙に手にできる者とするならば、この賛辞はポルケにはあたらないだろう。
素朴におこなってしまえば分離してしまうはずのものを混ぜあわせ、一つとすることが彼らの使命だったのだし、如何に「(生成過程をとわれないような)自然」に見えるよう、絵を成すことできるか?ということが多くの画家の達の目標だったはずだ。
フェティッシュに絵の具や布にこだわるあまり内容を伴わないその画面は、ただ大きくなり観客を威圧することしかできなくなっている。実際のポルケの作品よりも印刷物として圧縮され、布の模様や筆触が現実のスケールと遊離していた方が、少しだけ感覚が揺らぐことを我々は知っているはずだ。

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