Tuesday, November 07, 2006

Everything Happens To Me――後藤明生『笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ』(1981)

1.
この秀逸なゴーゴリ論であり、かつ自身の作家としての方法論でもあるエッセイで、後藤明生が捉えた〈笑い〉とは、単純化すれば、ボードレールが区分した「有意義的滑稽(ウィット)」と「絶対的滑稽(グロテスク)」のうち、後者であるといえるかもしれない。それが端的にいって「現実に生きている人間たちの〈実話〉でさえあったならば、そこに必ず、一つの滑稽な世界が、構造として発見されるはずだ」という観点であるならば。
たとえば後藤は、『鼻』の、ある朝突然自分の鼻が消えてなくなったことに気づき、死ぬほど狼狽する主人公八等官コワリョーフと、その彼の訴えを聞いて、「まともな人間なら鼻などなくすはずがないだろう」と応える警察署長の〈笑い〉を「笑う-笑われる」関係として分節する。「然るに、警察署長は、想像も出来ない自分というものを想像してみようとはしない。彼が笑っているのはそのためである。そして同時に、笑われているのも、まさにそのためだった」。要するに、「笑う-笑われる」関係とは、どちらに立とうとも絶えず他方に変換しうる、そのメタレベルに位置することがないような関係である。
しかし同時に後藤は、二人以上の人間の、個々の会話の内容や行為ではなく、「関係」そのものが滑稽であると言う。すなわち「笑う-笑われる」関係自体に対して、笑う立場と笑われる立場の変換可能性そのものに向けられたものを〈笑い〉と呼んでいる。ここで彼は「メタレベルは無い」というメタレベルに立っている。この二重性、ロジカルタイプの異なる二つの〈笑い〉のあいだを行き来している、その移動の軌跡が、ゴーゴリをめぐる彼の思考を錯綜したものにしている。
けれども以下では、〈笑い〉という感覚(ないし判断)をひとまず脇に置き、彼の挙げている幾つかの「関係」を追ってみることにしよう。

2.
まず興味深いのは、様々な非対称的な力学のうちにある一対一もしくは一対多の人間関係と、個々の人物の認識との齟齬を、彼が「関係」と呼んでいることだ。その「関係」は、おおまかにいって次の二種類に集約される。
A.相補的な関係にあるにもかかわらず、そのことをお互いに知らないという「関係」。
B.お互いに前提としている状況(=ルール)が異なっているにもかかわらず、一つの会話(=ゲーム)を行っているという「関係」(この場合大概主人公の方は、そのことを齟齬として感じとっている・知っているが、まさに「知っている」ために、相手にイニシアティヴを握られている)。
Aの場合、ある者は突然の鼻の消滅によって打ちのめされ、またある者は突然出現した鼻のために打ちのめされるという対照的な整合性がある(カフカの『変身』を「グレゴールの変身-まわりの人間たちの変心」という力学的な関係において捉えていることも同様である)。一つの変化は他の一つ以上の変化を否応なく引き起こすという点で〈関係している〉のだが、その〈関係している〉ことを誰も認識していないがゆえに〈無関係〉である、ということがいえる。Bの場合、一方が「異常な緊急事態」にいて他方が「日常」にいるため、その会話の内容が咬み合っていない(内容を共有することが共有認識になっていない)がゆえに〈無関係〉であるのだが、会話という形式を共有している点で〈関係している〉、ということがいえる。
後藤明生はこのようなある関係と別の関係との不整合を「因果律を超えた世界」と呼び、作品世界とこの世界に相同的な「現実=構造」として捉えた。「因果律を超えた世界」とは、より正確にいえば、起こっている事態の速度に認識の速度が追いつくことがないという、永久に埋まらない時間差のことであるだろう。そしてそのような「現実そのものは、いわゆる〈喜劇〉的でもなければ〈悲劇〉的でもない」のである。これこそが、あらゆる関係項の変換・組み合わせを可能にする、その前提条件となるドグマだった。

3.
ところで後藤の言う〈笑い〉には二つのレベルがあると先に述べたが、それは彼の言う「リアリティ」に二つのタイプがあることとパラレルな関係にある。
一方は「原因はわからないが、衝撃がある」つまり誤認であろうと正認であろうと、判断を欠いたまま感情の反応だけがあり、その連鎖がどんどん進行していくという事態の「リアリティ」であり、これは「噂の構造」と相似形をなしている夢の経験のことだといっていい。なぜなら夢の経験とは、そこでどんなことが起こっても、その真偽を判断する前にとりあえず受け入れてしまうという性質を持っており、夢のなかで「これは夢なんだ」と知っている場合は極めてまれだからだ。この意味において「ゴーゴリにとって最も幻想的に見えたもの、それが現実だった」。しかし他方で次のような一節がある。
「それにしても、夢の方法で現実を考えるというのは、それ自体すでにおかしなことだ。〈夢の方法〉で、ということは、〈夢を見る見方で〉ということであり、その方法で現実を考えるということは、眠った状態でめざめた人間と関係を持つということになるだろう。また逆に、めざめた状態で眠った人間と関係を持つことでもある。それは確かに、おかしなことに違いない。しかし、ゴーゴリの世界においては、人物と人物の関係は、まさにそのような形で捉えられているといえるのではないか」。そして彼はこの関係そのものが「リアリティ」であると言っているのだ。
あらゆる物事が次々と組み換わり、その変化の渦中にいて、瞬発的な感覚の刺激は充満しているかわりに、変換そのものには何ら関与できないという受動性がもたらす「リアリティ」と、そのような状態にいる自分を、ある関係項の一コマとして捉え、外側からみたときに得られる認識の「リアリティ」。前者から後者への移行こそ、彼の〈笑い〉ないし「異化」の方法のターゲットなのだ。けれどそれは、ある判断を相反する対極的な判断によって中和するということではない。心理的なものはその本性上かたちを持たず、かつ「原因」を欠くことによって(つまり、どうしてこんな気持ちになるのかわからない、何かを感じたがそれが何なのかわからないと疑問を覚えることによって)「リアリティ」を得る。同時に人は、そのときはじめて「心理」を対象として認識するのだともいえる。この本のなかで執拗に描き出される方法は、そうした一端は原因から切り離された感覚=心理を組み換え、その組み換えが可能であるという事実によって判断=認識を組み立て直すプログラムなのである。

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