Saturday, November 04, 2006

ルールの在り処 その2

《互いのなかに》というシュルレアリスムの集団で行なう実験=ゲームがある。どういうものかというと、まず参加者のひとりがグループから出ていって、演技するときのように、自分に何かある設定を下す。自分はたとえば「階段」だ、と心に決めて、他方で彼がいないあいだに他のメンバーは、彼に「シャンペンの瓶」として自己紹介してもらおう、というふうに設定を決める。そして彼は「階段」としての自分を演じ描き出しつつも、しかし他のメンバーの前では「私はシャンペンの瓶ですが」と自己紹介しなければならない。丁度スパイのように自分を二重化して、他人にプレゼンテーションする自分と、それとは別に自分が定めた規律を一致させることなく共存させる。そういう実験=ゲームだ。
さてしかし、そうした相反する立場に「自分を二重化させる」とき生じる困難とは、どのようなものだろうか。たとえそれが内的なルールだとしても、「目の前に鉄棒がある」と思って、それに対して何らかのリアクションをするという設定で身体を動かすのと、「自分は鉄棒だ」と思って、それになったつもりで身体を動かすのとでは、まったく異なる動作が抽出されるはずだ。だがこの異なる二つのルールに同時に従うことは、シャンペンの瓶と階段の両者を演じる以上に難易度が高く、次元の違う試みである。それはたとえば、操り人形のように外部からリモート・コントロール(遠隔操作)されている動きと、内部からの指令による自律的な動きを同時に行なうことに等しく、殆ど不可能なように思える。ということは、あるルールに従って演技する者と、ルールの外でそれを観る者との経験に、共通するものはないのかもしれない。では当の演者が鏡などで自分を見て、その見え(像)を個々の行為にフィードバックさせるとき、そこで操作(調整)しているものとは何なのか。こうした像を最終的な基準とせずに設定を組み立てるとしたら、他にどんなルールが必要となるのだろうか。

シュルレアリスムの代表的な方法であるデペイズマンは、互いに文脈の違う異質なもの同士が出会う(「蝙蝠傘とミシンの手術台での出会い」)といったときに、それらが出会う場・フレーム、つまりはそれを操作する主体のポジションが、あらかじめ確保されていて揺るがないという点に欠点があった。それに対し、確かにオートマティスム(自動記述)は、主体が操作不能性を全面的に受け入れるという、方法論を拒否するような逆説的な方法であるがゆえに、一般化を免れている。
けれど結局のところ問題となるのは、そのような意識的な操作の外で起こった出来事も、「実験」であるならば事後的であれ「成功か/失敗か」と判断される基準が、あるいはそれを「作品」だと認定する主体が、必ず要請されてしまうという点にある。

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