Saturday, August 05, 2006

五月の3日間――岡田利規ワークショップに参加して

今年の5月に、四谷アート・ステュディウムで行なわれた岡田利規(チェルフィッチュ)のワークショップに参加した。3日間という短い期間ではあったが、気鋭の演出家である岡田利規の方法論の一端が伺えたのみならず、その演習課題は、僕が現在関心を持っている問題をも内包していたように思え興味深かった。以下それについて若干の考察を試みたい。

演習課題は端的に、ある人が話した話を、別の誰かがコピーして話す、というものだ。さしあたって、岡田氏の指示したワークショップでの作業工程を記しておこう。

  1.参加者は一人づつ、その場で一分程度の話をする(内容は任意)。これがモデルとなる。
  2.話を録音したものを一字一句書き起こしてテキスト化し、パフォーマーはそれを覚える。
  3.ここからの展開させ方は二種類ある。
   [a]記録のビデオ映像を見て、モデルの身体の所作・挙動をできるだけ忠実に真似る。
  [b]モデルの所作・挙動とは別の、自律した所作・挙動を、与えられたテキストから生み出す。

パフォーマーが観察しコントロールすべき基本要素は、発話された言葉と、そのときの身体の所作・挙動の関係にある。岡田氏が演出する際にまず強調していたのは、人が何かを話す際には、その話そうとする出来事や経験の総体が、話されている言葉よりも先行している、という点だ。彼はその総体を「イメージ」(あるいはあるときには「空間」)と呼ぶ。実際に発話されている言葉は氷山の一角にすぎず、話されなかったけれども存在していた様々な細部があるはずだ。さてしかし、そのような水面下にある潜在的なものは、どのようなかたちをとって、間接的にであれ表面化するのだろうか。たとえば、話し手が話す前から独りでウケて笑う、ということがしばしばある。話の内容と話者の反応は逐一一対一対応しているとは限らず、むしろ時制的としてはそれらはずれていたりする。話されている言葉そのものは直線的だが、発話するときの所作・挙動との相関関係は実のところ、もっと錯綜しているのだ。

話そうとしている出来事や経験の総体を思い出すときのリズムと、喋るリズムとを切り離すこと。そのために岡田氏は、人が話すときの身振りを二つに分類する。一つめは、言葉を補ってよりわかりやすくするという目的に添った、他人に何かを伝達したり説明するための身振り。二つめは、そういった目的に還元しえない、外から見たら何を指し示しているのかわからないような身振りであり、どうしてそう動いたのかわからないが、にもかかわらず何か必然的に出てきたように感じる動き。なかでも特に「イメージ」を話者が内的に確認する作業を通じて生じる種類のもの。この二つめの身振りを抽出することがワークショップでは目標とされた。
つまり、コピーする側すなわち演技する側は、ただ言葉(台詞)を追いかけるのとは別の作業をする。単に話し手の話し方を真似るのではなく、再現すべきは、話し手の一挙一動に反映する、「イメージ」が先行しているという事実である。それをどのようにつかむかが、とりあえず大枠の判定基準になる。

この問題設定は非常に面白いと僕は思う。意図とは無関係にみえる動作、ないし無意識的な動作をいかにして意図的に組織化するか? 上記の試行を一言でいえば、そう要約することができるだろう。個々の動作の表われ方は人によってさまざまだが、主眼となっているのは、動作が生まれてくるメカニズムを捉えることなのだ。

けれど一方で、演習中に幾つかの疑問も生じた。
作業工程3-[a]が、外から見えているもの、形から入るやり方なのに対して、3-[b]とはつまり、他人の経験を自分の経験として(内側から把握して)話すというやり方だが、話の内容(「イメージ」)に感情移入することが目的であるのならば、むしろテキストを覚える必要はない。言葉じりを無視して、あらすじだけ頭に入れておき、後はその場で即興すればいい。その方が演じる側はテキストには描かれなかった細部を自分で作り出す余地がある。それならばなぜ、テキストという縛りが必要とされるのか? 
これはもちろん、「演技すること」一般に関する問題である。「演技」とは定義上、演じている者の意図的な動作の集積でしかありえない。一般に「うまい演技」とは「演技にみえない(くらい自然にみえる)」ということだ。それが自律的・自発的にみえ、あたかもモデルないしシナリオが存在していないようにみえ、まるではじめて起こったかのようにみえるという、いわゆる「うまい」演技と、「イメージ」が先行している話し方の「よさ」の基準には、どのような差異があるのだろうか。おそらくそこに原理的な違いはないのではないか?
「意図とは無関係にみえる身振り」は、あくまでもテキスト(意図)との関係において「ノイズ」と扱われる。つまり諸々の動作はテキストとの関係に規定されている。「ノイズ一般」として見做されている限りは、個々の身振りはテキストとは別の体系として組織化されていることにはならない。テキストと動作が別個の体系性を備えており、そのうえで、さらに双方を関係・対応づけるというプログラムが採れるとすれば、さらに面白くなるのではないかと思えた。そうすればたとえば、テキストから動作をつくりだすだけではなく、逆に、動作からテキストをつくりだすことも可能なはずだ。

おそらくポイントは、話を話すときに生じるノイズと、他人の話した話をコピーするときに生じるノイズ、その二つのノイズの性質をどう捉え、組織するかということにあるのだろう。岡田氏は単なる写実的なリアリズムをよしとしているわけではもちろんない(「自然にみえる」ことを演出の基準にしていない)。とはいえ、しかし写実・再現しようとしなければノイズは現れてこない(認識できない)という点はやはり重要だ。

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