Monday, November 06, 2006

内出血型スプラッタームービーのための序章

大分前に何かのインタヴューで映画監督の黒沢清が、「ホラー映画で、怖がっている人の顔を見せて観客を怖がらせることは、安易なのでしたくない」という主旨の発言をしていた。もっともなことだ。けれどもし、大概のホラー映画においてやたらと怖いのは、画面内で恐怖の対象と目されるものにあるのではなく、怖がっている人の顔にあることが事実だとしたら、その事実はいったい何を示唆しているのだろうか。
それはともかく、恐怖のあまり絶叫する人の顔がまったく怖くない映画に、サム・ライミの『死霊のはらわた』シリーズがある。モダンホラーの亜流に、この『死霊のはらわた』が元祖である「スプラッター」というジャンルがあるが、それは音楽で喩えるならロックに対するへヴィメタルの位置に該当する、小児的ともいえる短絡的な派生形態だ。このジャンルは、ホラーが開発した、人を恐怖に陥れる様々な技法のうち、心理というより生理に訴える効果だけを、マニエリスティックに誇張するという特徴がある。
しかしながら、アクションともサスペンスとも異なるジャンルとしてのホラーの享楽の源泉は、肉体を思う存分切断し変形させ、あらん限りのやり方でそれを弄ぶことだと見做したサム・ライミは、ある意味で正しかった。なぜならその最大の長所とは、死を一貫して形而下のものとしてしか扱わない、見当外れだがそれゆえ圧倒的なポジティブさと、明快な即物性にあるのだから。
たとえば『死霊のはらわた2』。前作の初々しさは失われ、設定をそのまま踏襲しているためか筋らしい筋もなく、被害者の数を水増しすることでかろうじて通常の商業映画の一時間半という枠に達しえたこの映画の、観るべき点はただひとつ、前半での主人公の一人格闘シーンに尽きる。悪霊に取憑かれたらしい彼は自分の頭を食器で何度も勝ち割り、終いには勝手な行動をとる手に負えない自身の片手をチェンソーで切り落とす。いまや完全に自律した、昆虫のような動きをする片手に追い回されるシーンから、死骸とのダンスに至ってワルノリは頂点を極める。殺したが死体はある。埋葬したが幽霊はでる。この絶え間なき悪循環。
長新太の絵本『イカタコつるつる』は、意図せずしてこうしたスプラッターの核心を突いた傑作だ。イカがラーメンを食べていたら、足が絡まって一緒に食べてしまう。隣のタコもスパゲッティを食べていて、同じく足が絡まって一緒に食べてしまう。その二人がさらにこんがらがって事態は加速するが、しかし台詞はいつでも「いたいけど、おいしいよ~」。最後のページには、空の器と皿があるだけで誰もいない、ただ「ごちそうさまでした~」の声が響くばかり。いったいこの声はどこから発せられているのか?この地点、この声の発せられた場所から構想される映画、それはおそらく「内出血型の」スプラッターと呼ばれるだろう。

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