Sunday, November 12, 2006

否定するにはあまりにも多くのものが見えるし、確信するには見えるものがあまりにも少ない

執着をもつのは、現実性の感覚が十分でないということにほかならない。人がものの所有に執着するというのも、そのものを所有しなくなると、そのものが存在しなくなるかのように思いこんでいるからである。ひとつの町がほろんでなくなってしまうことと、その町の外へ追放されて二度と戻れなくなることとには、まったくもって非常な違いがあることを、多くの人たちは、心の底から感じていない。(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より)

「死んだ人」と「もう二度と会えない人」、その違いはどこにあるのか?と問うてみる。
誰でもない眼差しが、もしも実体として存在し、それによって世界を眺めることができたなら、きっとその差は歴然としている。けれどこの差異は、つねに局所的であるほかない主観においては確証できない。二度と会えない人とは、まるで死者のごとき存在だと言いたいのではない。正確にはむしろこうだ。死んだ人のことも二度と会えない人のことのように、今何をしているだろうと、彼(あるいは彼女)はどうなっただろうと、等しく想像できてしまうこと、その想像の仕方に違いを見出せないこと、それこそが僕を苛立たせる。感知しえない、しかし、感知せねばならない。

「死んだ人」と「もう二度と会えない人」の違いとは、たとえば「濡れている髪」と「乾いていない髪」という二つの表現の違いのような、わずかな隔たりだ。ある言明の持っている時間的な幅。「乾いていない髪」という言葉は、「濡れている」という事実よりも、「いずれ乾くであろう」という予測に焦点が合っている。一見中立的な記述にも、ある種の願望や、何らかの志向性が組み込まれている。表わされた一文とはいつでも、分岐した可能性のなかからいつのまにか選択された、ひとつのフォーカスなのだ。
すべてが現在(進行)形で書かれている、一連の文章があったとすれば、こうした時間的な幅が生じると同時に浮かび上がる志向性を、排除することができるのだろうか。しかしそれはおそらく途轍もなく奇怪な文であるだろう。というよりもそこからは、文章を読むときに感受する没入感、あの内在的な感覚は生じえない。むしろそうした感覚とは、個々の志向の不均等さ、内包する時間的な幅の伸縮、ないしは落差によって生じる。

ある対立項A/Bがあったときの、論理学的には等しい二つの言明、「Aである」と「Bでない」。違いがあるとしてもそれは、指示している対象の差異なき――選択される余地がある限りは恣意的な、純粋に表現上での差異にすぎないのか。
しかし再度問い直せば、「死んだ人」と「二度と会えない人」は、決して「死んでいる人」と「生きていない人」の違いに還元されるものではなかった。自ら確証しえないにもかかわらず、「僕」という項を投入しなければそもそも成り立たないこの違い。それはまさしく局所的な主観においてのみ、つまりフォーカスしたからこそ、存在する。

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