Thursday, April 03, 2008

最遠平面|ユクスキュル[引用]

作用空間および触覚空間とは反対に、視覚空間は不透明な壁によって取りかこまれている。これを地平面または、最遠平面と呼ぶことにしよう。
太陽・月・星などは、目に見える全てのものを包みこんでいる同一の最遠平面の上に、奥行きのちがいを感じさせることなく動いている。最遠平面の位置は絶対に動かせないように固定されているのではない。以前私が重いチフスを患った後、はじめて戸外に出たときには、最遠平面がまるで鮮やかな色彩で彩られた壁掛けのように約20メートル先に掛かっていて、その上にすべての目に見える事物が描きだされていた。この20メートルのかなたにおいてはもう遠いものとか近いものとかの区別はなく、ただ、大きいとか小さいとかの相違があるだけだった。(中略)

10メートル周囲の内部では、人間の環境世界の事物は、このような目の筋肉運動によって、遠近が判断される。この外側では、本来、ただ対象物が大きくなったり小さくなったりする現象がおこるだけである。乳児の場合には、その視覚空間のすべてを包括している最遠平面は、この10メートルの距離で閉じられている。われわれは、次第に距離信号の助けによって、この最遠平面をだんだんと遠くへ拡大していくことを覚える。しかし成年においても、視覚空間は6キロから8キロメートルの距離で閉じられ、そこから地平面が始まる。(中略)

最遠平面がどのような仕方で視覚空間を閉じているにしても、最遠平面というものはつねに存在している。したがって、われわれ人間の周囲の自然に生気を与えている動物たち、たとえば草原に生活している甲虫、チョウ、ハエ、カ、トンボなどは、それぞれ一つのシャボン玉のようなもので取りかこまれているものと考えることができる。このシャボン玉は、それらの動物の視覚空間を閉じており、その中に、主体にとって見えるすべてのものが包みこまれている。一つ一つのシャボン玉は、それぞれ別の場所をその中に含んでいて、その中にはそれぞれの作用空間にしっかりした骨組を与えている方向平面も存在している。(中略)

われわれがこの事実を生き生きと目の前に思い浮かべるとき、はじめてわれわれは人間の世界においてもこのシャボン玉を認識しうるのである。こうしてわれわれは、全ての隣人たちが主体的な知覚信号からできているがゆえに、何の摩擦もなしに接しあっているシャボン玉によって取りかこまれていることに気がつく。主体と無関係な空間は存在しない。けれどもわれわれが、なお、すべてを包括している宇宙というフィクションにこだわるとすれば、それはただこのような古くさいフィクションの助けを借りる方が、お互いに話しが通りやすいからというだけのことである。

 ▶ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』(原著1934)


 Pablo Picasso