Wednesday, April 09, 2008

りんごと地球は互いに落下しあう その2

視覚ほど、自分のポジションを忘却させやすい感覚器官は、他にないだろう。おそらく触覚には「透明」というややこしい状態は存在しない。視覚が面白いのは、むしろ視覚的とは言いがたい感覚までもが視覚(のエラー)によって見い出せるからではないだろうか。

たとえば、みそ汁の入った椀をトンと机に置く。椀はもう止まっているが、なかのみそ汁はまだゆらゆら震えている。そこで、そのみそ汁の水面だけをじっと眺めてみる。眺め続ける。すると瞬間、みそ汁は静止し、それ以外の周囲すべてがぐらぐら振動する。赤瀬川原平の《宇宙の缶詰》のコンセプチュアルな閃きとはまた別種の、エフェクティヴな、この関係の逆転。

エルンスト・マッハは『感覚の分析』で、この現象と似たような事例について考察している。
橋の上に立って下を流れている水を眺めると、普通には自分は静止していて水の方が流れているように感じる。しかし、しばらくのあいだ水面を見つめていると、周知の通り、必ずといってよいくらい、橋がわれわれ観察者とその周囲もろとも水に対してとつぜん動き出し、逆に水の方が静止しているかのように見えはじめる。
停まっている汽車と動いている汽車がすれちがうとき、誰しも実にさまざまなかたちで、この種の印象を受けたことがあると思う。蒸汽船でエルベ河を遊覧したおりのことであるが、私は上陸する直前、船の方が停まって陸地の方が船の方に向かって動いてくるような、驚くべき印象を受けた。

また、もっと素晴らしいのは、風がなくて雪が降りしきっている冬の日、マッハの娘が体験したという「家ごと昇っていく」ような感覚だろう。つまり、窓辺で雪を眺めていてそれが静止しているように見え、降るという実際の運動と逆に、自分がいる家を含めた雪以外のすべてが上昇して見えたというわけだ。それはいましがた降ってきた雪が見ている風景、雪の目線そのものではないか! 「これらの諸現象はいずれも純粋に視覚的な現象ではなく、全身の打ち消しがたい運動感覚を伴っている」とマッハは言う。われわれは、複数の運動と静止を、同時に見分けることはできない。運動感覚は足早に、それを既知の状況にあてはめて処理しようとする。この性急かつ投げやりな性分を利用するのだ。

撮影装置としてではなく、映写装置としての映画を考えてみた場合、こうしたポジションの忘却という視覚の性質はさらに決定的になる。ある特定の時と場所において撮影された映像を、それとは別の時と場所で見るということ。つまり、通常の見る行為とは異なり、何らかの映像を見るという経験は、それを見る側の位置や環境との関係、さらに他の諸知覚との連動性から切り離されている。

これと同型なのが、移動中の乗り物から外を眺めるという経験である。たとえばスピルバーグの『太陽の帝国』で、ちょうどスクリーンを眺める観客と同様に、主人公の少年が自動車の車内から人が溢れた上海の街並みを眺めるシーンのように、知覚と行為の対応関係のみならず、「私はそれを見ているが、それが存在しているとは信じない」といった表象と実在の対応関係の乖離こそ、典型的に「映画」的なものであった。
あるいはまた、ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』の天使は、あらゆる場所の人間を観察することができるが、自分自身がそこに介入し、働きかけ、関係することができない存在として、すなわち、あらゆることを知ることはできるが、何一つ経験することはできない存在として設定されているが、これなどはあからさまに観客の位置と相似的である。

凝視することは、自分のいまいる場所ではなく、いま見ている(ということは自分とは距離のある)対象との関係を世界の基点にすることだ(見ることはまるでピン留めのようだ、しかし何をピン留めするのか? 《最後の審判》のミケランジェロの自画像のような、皮だけになって垂れ下がるわれわれ自身の身体を? )。だが、「見ることがすべて」になったとき、「動くことができる」のではなく「止まることができない」という、われわれの打ち消しがたい運動感覚は、はたして亡霊のように復活するのだろうか。

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