Monday, October 31, 2005

Stephan Balkenhol Exhibition

東京オペラシティアートギャラリーで開催されているドイツの彫刻家、シュテファン・バルケンホールの展覧会を観てきた。今回の展示ではレリーフも多数出品されていたが、彼は主に一本の木から彫り出された人物や動物像を、複数組み合わせたインスタレーションで知られている。
単刀直入に問題提起しよう。なにゆえにバルケンホールは、わざわざ個々の彫像の高さや位置を様々に変えてインスタレーションするのだろうか? その必然性はどこにあるのか? 遺憾ながらそれは、個々の彫像自身が、それが置かれているところの空間を変容させ、規定し直すことがないがゆえに採られた、稚拙な妥協案でしかない。

人物像は、彫りだされた像とその下の台座からなっている。それらは同じ一本の木からできていて、台座はもとの素材のままで加工されていないか、着彩されている場合があっても、サイズや形状には手を加えられていない。だから当然、その人物像は台座よりも大きくなることはなく、そこからはみ出ることがない。この限定は言うまでもなくミケランジェロをはじめとするカーヴィングの古典的問題に抵触するわけだが、しかし、バルケンホールはそのことをそもそも問題と捉えていない。つまり、あらかじめ与えられた全体、もしくは素材の持っているスケールは揺らぐことはなく、像との安定した関係を保持しており、台座からはみ出ることのないはずの彫像が、にもかかわらず、別のスケール、別の全体をかたちづくるという逆転はまるで起こらない。
あるいはまた、全面にプリミティヴなノミのタッチが残っているが、それも(たとえばセザンヌのようには)全体のフォルムの変動にさして寄与することのない皮相的なもので、いわば「粗々しさ」の記号、単調な「味わい」をつくりだすものに過ぎない。そして、フォルムの統一性は実のところ服や髪といった具象的な分節に律儀に従った彩色に全面的に負っている。
肖像レリーフの場合も、基本的には彫像と同様の操作で、人物の部分を彫っていき、そのバックはもとの板のままで削らず残している。その結果、人物が手前にあって背景が後ろにあるという通常の見え方と逆になっていて、壁に人物がめり込んでいるようにみえる。これはこれでオプティカルな効果としてはそれなりに面白いのかもしれないが、それを「現実との関係を揺らがす」などと評価するのは控えめに言っても褒めすぎで、浮き彫りという技法が持つパラドクスがそのまま露呈しているだけだ。

唯一好感が持てたのは、『男』というブロンズのあまり知られていない作品で、二体の全身像が、その両膝の関節の繋ぎ方と首の傾斜の関係がおかしいために、ねじれた空間をかたちづくっていた。革新的かどうかはともかく、マンガのようなデフォルメに一定の根拠を与えていたと思う。

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